パゾリーニ探索十一
マリア・カラスとパゾリーニ
——〈挑発〉としての神話『王女メディア』——
兼子利光
太陽と大地を体現するマリア・カラス
「……いずれにしても、そこで〈『イタリア共産党を若者に!』のなかで―註〉支配的なのは挑発である(それらの詩句はその醜悪さゆえに、見境なく挑発を表現している)。しかし、ここが問題である。なぜ私は学生たちに対して、かくも挑発的であったのか?」
(パゾリーニ「弁明」)
これは『イタリア共産党を若者に!』に続く「弁明」という文の一節である。これと同じく、『テオレマ』においてもそうであったように、『豚小屋』はいっそう挑発的な作品であったといえる。醜悪なテーマを前面に押し出しているとはいえ、やさしさにみちた詩的なメタファーを用いて、『豚小屋』は当時の学生運動、ブルジョアジー、高度(消費)資本主義(パゾリーニの言葉では「新資本主義」)によって画一的にプチ・ブル化しつつある社会に対する、まぎれもない〈挑発〉を表現していた。ここで〈挑発〉とは、パゾリーニがわざわざ断っているように「共感のレベルでの挑発」であり、「(ファシストと警察の挑発は受け入れられない挑発である)」。したがって、パゾリーニのいう〈挑発〉とは市民社会に対する批判と否定の意識であり、『豚小屋』という作品に現在でも突き動かされるものがあるとすれば、それはこの映画が今でもその現在性を失っておらず、それどころか半世紀を経た現在に即した、世界に対する新たなイメージを喚起させるような作品でもあるからだと思われる。
そして、『王女メディア』(一九六九)である。
『王女メディア』の冒頭、最初それがなんなのか、よくわからないのだが、太陽の光が(それはこれから昇る太陽だろうか、あるいは地平線に沈みつつある太陽だろうか)地平線の向こうから大地に円錐形の層をなすかのように降り注ぎ、それがオレンジ色に燃え上がるのである。この全体が赤みを帯びた映像を背景に、マリア・カラスのクレジットが浮かび上がる。中東アジア風な音楽とともに、この映像は圧倒的であり、神秘的でもある。こうして、この作品が太陽と大地、それらを体現するマリア・カラスのものであることが示される。
オペラのライブが『マリア・カラス 伝説のオペラ座ライブ』(映像監督ロジェ・ベナムー、一九五八)として残っていて、公開されているが、映画作品としてはこの『王女メディア』がマリア・カラスにとって唯一のものである。
ルキーノ・ヴィスコンティは一九四八年という早い時期からマリア・カラスの存在を知っていて、五三年ミラノ・スカラ座でマリアが『トロヴァトーレ』を歌うと聞き、当時『夏の嵐』の撮影中にもかかわらず、劇場にかけつける。その時の様子をヴィスコンティの姪にあたるクリスティーナ・G・キアレッリが次のように書いている。
「アリア〈恋はばら色の翼にのって〉を歌う直前、マリアが舞台の前面に進み出た時、伯父はすさまじい戦慄が身体をつらぬくのを感じた。マリア=レオノーラが強烈な演劇的、音楽的存在感で客席を圧倒し、舞台と観客が混然となった時、彼は舞台の上にはじきとばされたような感覚に襲われたのだ。」(『マリア・カラス 情熱の伝説』吉岡芳子訳、新潮社)
古代ギリシャからそのまま現れ出たような、マリア・カラスの演劇的・音楽的存在感が舞台と観客を混然と一体化し、ヴィスコンティを驚倒させるほどに、大きな力で観客を圧倒する、この時のスカラ座の芸術的な緊張感にあふれる様子がよく伝わってくる。
そして五四年、スカラ座でのヴィスコンティ演出による伝説的な『椿姫』の上演となる。これについては、たくさんの評価や感想があるのだろうが、ここでは指揮者のカルロ・マリア・ジュリーニの言葉をあげておく。
「一瞬、この心臓が止まったほどです。眼前にあるものの美しさに茫然とさせられたのです。私の生涯で見たうち、もっとも高雅にして心奪われる舞台でした。」(レンツォ&ロベルト・アッレーグリ『カラスbyカラス』小瀬村幸子訳、音楽之友社)
これはヴィスコンティの創りだした舞台についての驚きであるが、ジュリーニをしてこれほど驚嘆せしめた、ヴィスコンティ=マリア・カラスの『椿姫』がどのようなものであったかを伝えるには、これで十分だろう。そして、ヴィスコンティの美的なものに対する完璧さから「他の人々、つまり指揮者や出演者、美術監督、ダンサー、楽団員たちは、突然、完璧をめざす気狂いじみた競争にまきこまれて、誰一人遅れていられなくなる。」(クリスティーナ・G・キアレッリ、前掲書)という。このことはまた、ヴィスコンティの映画製作にも言えることで興味深い。
六〇年代後半、マリア・カラスとギリシャの海運王オナシスとの生活も、オナシスが暗殺されたケネディ大統領の未亡人ジャッキーと結婚することで終わりを告げることになる。マリアの「声の危機」もあり、マリアは失意のなかにあった。そんな時期に、パゾリーニによる映画『王女メディア』の話がマリアに持ち込まれたのである。そのへんの事情をマリア自身が語っているところを要約すると、
〈……しばらく前から、フランコ・ロッセリーニ(プロデューサー)は私に映画出演を勧めてくれました。あれこれの理由で私はそれを断っていましたが、とりわけスクリーンでのオペラは断っていました。……その後、フランコは「メディア」についてのパゾリーニの具体的な企画をもって、私のところにやってきました。六八年十月十九日のことです。私たちは意見が一致しました。私はすでに『アポロンの地獄』を見ていて、気に入りました。それから、『テオレマ』。これは私には理解できませんでした。……彼と初めて話をした時はちょっと戸惑いました。気難しいインテリという感じでしたが、彼は抑制的で、私に対してとても穏やかでした。こうして、彼との仕事はやりやすいものになると思いました。それから映画が始まり、パゾリーニは私に彼の演出を明らかにした後は、女優として演じる私についても、メディアの人物についても、決して自分だけで決めることはありませんでした〉(『幻影の規則』より)
当時、オペラ復帰も考えていたマリアだが、復帰には数年の年月が必要とされ、そこへ著名な詩人、映画監督であるパゾリーニの「メディア」への出演依頼はマリアにとって救いだったともいわれている。
一方、パゾリーニにとって、マリア・カラスとはどのような存在だったのだろうか。ニコ・ナルディーニによれば、クラシック音楽は愛好していたが、オペラには疎く、「おそらくパゾリーニは、ただ多くのグラビア雑誌に掲載されていた写真を通じて、カラスのことを知っていたにすぎないと思われる。」(『魂の詩人パゾリーニ』川本英明訳) しかし、ローマのスラム街ボルガータを思想的、感性的な根拠とするパゾリーニと、大富豪オナシスと浮き名を流すオペラ界の女王マリア・カラスがどうして結びつくのかは、不思議なところである。マリアは大戦後、共産勢力によってギリシャを追われたこともあって、反共産主義を公にも明らかにしていたのである。
「椿姫」のマリア・カラス