現前する古代の神話世界
『王女メディア』はエウリピデスのギリシャ悲劇『メディア』を原作としているが、パゾリーニはその悲劇の骨子だけを生かして自由に自分の意想を展開している。ケルビーニ作曲のオペラ『メディア』はマリアの経歴のなかで、中心となる役柄といわれている。『メディア』といえば、マリア・カラスといわれるほど評価されているものである。
エウリピデスの原作はイアソンのアルゴー船(人類最初の巨船でその船首は人語を話すとされるが、パゾリーニ作品ではどう見ても粗末な筏にしか見えない)遠征後の悲劇を主題としているが、パゾリーニはイアソンの幼少時から描きだす。
波のないおだやかなラグーナ(潟)のほとりに住む半人半馬のケンタウロスは諸芸に通じる賢人で、イアソンを成人するまで養育し、教育していた。そしてなぜ、ケンタウロスがイアソンを預かっているかを語り出す。それは「金毛羊皮」(神の使いの山羊で金色の毛皮をしている。それは永遠の力と秩序のしるしとして崇められた)をめぐる、神話的ないざこざであり、「女神たちの嫉妬」によるものだと、「メディア」の物語を予告するかのような話をする。そして、イアソンに「お前の王国を奪った叔父のところに行って、お前の権利を要求するのだ」と言い、それには「金毛羊皮」が必要となるだろうと告げる。
このシーンのロケ地はパゾリーニの故郷フリウーリのアドリア海沿いにあるグラードのラグーナと思われるが、青い空に静かな水面、風もなくおだやかな自然を背に、ケンタウロスの考えが披瀝される。
「……古代人にとって、神話や儀式は具体的な日常生活だった。それが全き現実なのだ。夏の空の深い沈黙を前に、彼が味わう感動は我々の魂の奥底の個人的な体験と全く同じものだ。神話の世界であるほど、それは現実的な世界なのである。……人間が穀物のうちに見たもの、そこから学んだもの、再び芽生えるためにおのれを土のなかに埋める、種子への理解。これこそ本当の教えだ、これが復活なのだ。……すべてが神聖だ、どんなものでも、目に映る諸々の自然のなかに神がいるのだ。その神が見えぬ時、すべてが終わる。別の世界がやってこよう。」
このシーンは作品のプロローグであるが、ここですでにパゾリーニのモチーフが語られている。そして、現実に根ざした世界としてある古代の神話的な世界へと入っていく。舞台は女王メディアのいるコルキス王国。このロケ地はトルコ・カッパドキアのギョレメ渓谷である。凝灰岩が浸食されてできた奇岩群が一面に広がる、この異形の景観はまさしく神話的な世界にふさわしい。古代ローマ時代、迫害をのがれたキリスト教徒がその奇岩を掘り進めて造り出したという岩窟住居群や地下につくられた聖堂や修道院などから成る地下都市が巧みに映像に取り込まれている。今では有名な世界遺産の観光地となっている、この神話的な奇岩群を背景にマリア・カラスが存在し、演じるのであるからこれはとても貴重な映像であるといえる。
最初に「供犠と再生」の儀式が描かれる。生贄に選ばれた若者が大勢の民の前で磔にされ、殺された後その身体をズタズタに切り刻まれ、その流れ出た血が民に供される。民はその血を作物の葉や根元にこすりつけ、豊穣の祈りを捧げる。そして、メディアが「この種子に生命を与え、この種子とともに蘇れ」と叫ぶ。それから、古代的な祭式の主宰者としてメディアは侍女を従えて、神殿へ祈りを捧げに行く。そこで、干し草に火が放たれ、燃えさかる火のなかにメディアは自らの身体を投げ入れる。そうして火をもあやつるという呪術者としてのメディアが表現される。このシーンはスタントを使わずにマリア自身が演じてみせた渾身の演技である。これらの神話的な祭儀がまるでドキュメンタリー映画のように、ほとんど科白もなく淡々と描かれていく。そして、この古代の共同体での女たちの農作業や手仕事、聖堂での祈り、日が暮れての眠りの場面などそこでの人々の日常生活が日常生活そのままに丹念に描写されているのを観ていると、あるいはパゾリーニはこの古代の神話的な共同体つまり自然の摂理に従った簡素で質朴な共同体に、自らの理想的な共同体(社会)の姿を思い描いているのではないかと思えてくる。この「供犠と再生」のシーンはメディアとその弟以外はすべて地元の人たちがエキストラとして参加したといわれるが、ドキュメンタリーよりもリアルに神話的な現実の再現に成功していて、古代的なイメージを喚起させるみごとな映像となっている。
そして、この古代の遺風をのこすコルキス王国にアルゴー船で兵士たちを連れたイアソンがやってくる。イアソンたちは、メディアの土俗的な共同体に対して、言ってみれば、よりモダンな集団であるといえる。メディアはそんなイアソンに惹かれ、「金毛羊皮」を盗み出し、それを手伝ってくれた弟をも惨殺して、イアソンとともに古代的な世界から脱出する。そして、イアソンの故郷イオルコスに到着する。異邦の地でメディアは自らの生まれ育った大地を離れた不安からか、絶望の言葉を発する。ひび割れた砂洲の上で、黒い衣服に身を包んだメディアはまるで舞い踊るかのように身を翻しながら、叫ぶ。
「私に話しかけて、太陽よ! …… 草よ、私に話しかけて。石よ、私に話しかけて。大地よ、お前は応えてくれないの? お前はどこにいるの? お前を太陽に結びつけていたつながりはどこにあるの? 私はこの足で大地に触れていても、この大地がわからない。私はこの目で太陽を見つめていても、この太陽がわからない。」
しかし、そんなメディアの存在の底から噴き出してくる言葉もイアソンや兵士たちの耳には届かない。蛮国の女王のたわごとにしか聞こえないかのようにせせら笑うだけである。メディアは彼らとは全く異質な世界の存在なのである。大地と太陽に結びついてこその風と火をあやつる呪力であり、メディアは異邦の地でしだいにその生命の力をそがれていく。
その後、イアソンはコリントスの地に赴く。メディアとのかつての情愛も消え失せ、イアソンはコリントス王の娘と婚姻することになる。そして、メディアもある情念を秘めてコリントスへ向かう。
ところで、メディアのみならず王族や兵士たち、あるいは民衆の身につけている衣装までもが、色鮮やかで美しいばかりでなく、装飾性にも富みなかにはごわごわしたような機能性に欠けた衣服もあったりと、古代的な神話世界をイメージさせるに十分なリアリティある映像を創り出すのに重要な役割をはたしている。この多彩で奇想なイメージの衣装をつくりだしたのが、ピエロ・トージである。そのピエロ・トージが撮影現場でのパゾリーニとのやりとりについて書いている。
「……撮影の最初の頃、ピエル・パオロと私の関係はとてもやっかいなものだった。実際のところ、「メディア」はルキーノ・ヴィスコンティから私に「受け継がれて」いた。このことが彼を警戒させたのである。事実、彼の世界はルキーノの世界とは全くちがっていた。たとえ、彼がそのことをはっきりと言わなかったとしても、長い付き合いから生まれた思いやりという仮面の下に、彼はその警戒心を解くことはなかった。ほんとうに彼に話しかけるのは骨の折れることだった。……彼に私のデザインをもっていくと、彼はいつも不満げな顔をしていた。そこで私はそうするのをやめ、すべての古代の世界を融合したものあるいはその寄せ集めからどんなものが現れてくるかを、彼に見せることができるように、試作モデルを直接念入りにつくり始めた。そしてようやく、我々の関係は平常に戻ったのである。たとえいつもとは違っていても、事態は好転していた。私は、例えば、俳優の姿を変えて登場人物にするのを習慣としていたが、ピエル・パオロは私がメーキャップすることすら望まなかった。彼は、俳優はそのあるがままでいいと望んでいたのだ。」
(『幻影の規則』より訳出)
ヴィスコンティの美的な完璧性を求める渇望の世界と、パゾリーニの創造的で詩的なイメージにこだわる現実主義的な世界の違いが、実際に一緒に仕事をしているピエロ・トージによって明らかにされていて、その職人的な世界の一端を知ることができる。
ギョレメ渓谷