「いまはただ、目的に邁進し、復讐の思いを遂げるのみ」
映像は悲劇の舞台となるコリントスへと移る。エウリピデスの原作はここから始まり、メディアの不実な夫と新しい姫に対する嫉妬、復讐という激しい感情が悲劇を招くところが描き出されていく。
パゾリーニ作品でのコリントスのロケ地は、外観はシリアのアレッポにあるアレッポ城塞で、その内部はピサのピアッツァ・デイ・ミラーコリである。今や内戦で廃墟と化したアレッポで、この城塞もまた被害を受けているといわれる。パゾリーニが残してくれたこの映像もまた貴重なものとなるのだろうか。
その小高い丘の上に築かれた巨大な城塞のなかで、王の娘グラウケーとの婚礼を控え、浮かれ騒ぐイアソンを見てメディアは憎悪の炎を燃えたぎらせる。イアソンに裏切られ、古代的な世界観を否定して発展する新しい時代に取り残されたかのように孤独であるメディアは、窓辺に差し込む太陽の光に気づき、太陽の語りかける声を聞き、太陽に応える。
「いまはただ、目的に邁進し、復讐の思いを遂げるのみ。おお、神よ! 愛する正義の神よ! おお、太陽の光よ!」
それから、近習の女たちとともに復讐の誓いを全員で朗誦する場面が続く。ここでのマリア・カラスの語りと表情には鬼気迫るものがあり、マリア・カラスのオペラの舞台での圧倒的な演技とは、あるいはこのようなものであったのか、とスクリーン越しに思いをはせるシーンである。そして、メディアの復讐の計画が実行に移されていく。近習の侍女が「人間のもっとも尊い掟」をもちだして諫めても、メディアはほかのように振る舞うことはできないと告げ、「誰がそんな勇気を与えるのか」と侍女が問うと、「嘆く夫の姿を思い描いて、勇気は自分で奮い起そう」という、すさまじい言葉が返ってくる。
メディアは息子二人に父親のイアソンとともに、婚礼衣装をグラウケーに届け、「お母さんはもうあなたを恨んではいません」と伝えるように申し渡す。早速、グラウケーは受けとった衣装を試着する。鏡に映るグラウケーは歪んでいるように見える。これはグラウケーのイアソンをメディアから奪ったという良心の呵責からくる苦しみの表出なのか、あるいはメディアの呪いによる歪みなのか。それから突然、グラウケーは叫びだし、建物の外へと走りだす。するとメディアの贈った衣装が火を噴いて燃えだし、グラウケーは火に呑みこまれ焼死する。これはメディアの現実のような幻覚である。幻覚から覚めると、そこへグラウケーの父親であるコリントス王(マッシモ・ジロッティ)がやってきて、「我々と異質な人間はわが王国には置けない」と、メディアと子どもたちの追放を言い渡す。
メディアは自らの幻覚を現実に移す。幻覚と同じように、子どもたちに父親とともに、グラウケーに婚礼衣装を届けるように言いつける。今度は現実がメディアによって魔法をかけられたかのように、同じことが繰り返される。この反復するシーンは異様な感じを観る者に与える。しかし、現実のほうは死のかたちが少しだけ違い、より残酷なものとなっている。メディアの婚礼衣装を着たグラウケーは恐怖を抑えきれないかのように部屋を飛び出し、円形の塔を上り、上りつめた塔の頂上からその身を空(くう)に投げ出す。わが娘を追いかけていた王もまた、娘に覆いかぶさるように墜落死を遂げる。この反復する復讐のシーンはメディアの呪いのなかで、なにが幻覚でなにが現実なのか区別がつかなくなる印象を与えて不気味であり、そうしてグラウケーは二度殺されているのである。
メディアは最後に、わが子に手をかけることでイアソンへの復讐を完成させる。このシーンでわが子を抱き、眠りにつかせるマリアの表情と姿が穏やかで安らぎにみちていて、これから行われるむごたらしい凶事を予感させないだけに、いっそうその悲劇を際立たせている。とは言え、古代世界の精神をもったメディアにとっては、それは自然な儀式であるのかもしれない。コルキス国での「供儀と再生」の儀式を思い浮かべるならば、それが現実的な判断なのだと、思えなくもないのである。音楽の選曲はエルサ・モランテであるが、このシーンでも、日本の長唄が流される。しかし、ここはメディアが静けさのなかで、わが子との別れに子どもたちに話しかける言葉だけで十分であると思われる。
そしてまた太陽が昇り、メディアのいる部屋のなかに、無数の生命の種子をもって、太陽の光が流れこんでくる。もちろん、古来太陽は創造の神であるとともに、破壊の神でもある。メディアは自分の邸の至るところに火を放つ。そして、邸の窓という窓から炎が噴き出しはじめる。子どもたちの弔いをさせてくれと、駆けつけて哀願するイアソンに、メディアは見下すように、「今はそんな嘆きは何ものでもない。老いの身になり、そう気づくがよい!」と拒絶し、自身もまた劫火に包まれていく。
この作品はエウリピデスのギリシャ古典を素材として、パゾリーニの現代的なモチーフでアレンジされた『メディア』となっている。それはニーチェふうに言えば、ディオニュソス的なものとアポロン的なものの対立であり、コルキス王国とその女王メディア、それに対してコリントス王国とその王になろうとするイアソンが対置される構図である。メディアは滅びゆく運命にあるコルキスを裏切り、捨て去るが、イアソンに裏切られることで自らの過ちに気づき、再び自らの内にある古代的な心性に目覚める。一方、イアソンはそんな大地や太陽に〈神〉を見いだすメディアの心性を笑い、きらびやかな都市コリントスで栄華を夢見る。その豪奢な建築物(撮影地はピアッツァ・デイ・ミラーコリ)の前で、イアソンはかつて自分を育ててくれたケンタウロスと出会う。半人半馬のケンタウロスと人間の姿をしたケンタウロス。これはパゾリーニによるわかりやすい映像化である。半人半馬は聖なる存在で、人間の姿は聖性を失った存在とされる。そして、イアソンはまさしく、自然のなかにある〈神的〉なものを見失ってしまった人間なのだとケンタウロスに諭されるが、もはやイアソンにはそれがなんのことなのかすら、わからなくなっている。
あるいはここには、パゾリーニがたびたび主張しているように、経済成長(新資本主義)によって農村社会や下層プロレタリアートの世界が滅び、豊かではあるが抑圧的で画一的なプチ・ブル化しつつある現代のイタリア社会が念頭にあるのかもしれない。しかし、メディアが体現しているのはイアソンという現実に対しての、滅びゆく過去の姿というようなものではなく、人間が本来もっていた太陽と大地に根ざした生命力と古代的な心性(聖なる存在)の顕現であり、それこそは現代のブルジョア社会への〈挑発〉以外のなにものでもない。
「わが子を殺そうとするメディア」ドラクロワ、1862