パゾリーニ探索6

観念じたいを揚棄する黒い〈笑い〉

    『大きな鳥と小さな鳥』

                      兼子利光

 

 

                     p・p・パゾリーニ

  受難 3

 

刑苦のなかの

安らぎのキリスト

あなたの血は

まさしく慰めの露だった。

はれやかな詩人、

傷ついた兄弟、

あなたは永遠の

住み処のなかで

光り輝く身体をもつ

われわれを見た!

それから、われわれは死んだ。

そしてわれわれのこぶしと

黒い釘はなにに向かって

輝いたのか、

もし、あなたの許しが

受難の永遠の一日から

われわれを見守って

いなかったのであれば?

 

 

 受難 4

 

傷ついたキリスト、

スミレ色の血、

キリスト教徒の澄んだ

目のなかの憐れみ!

咲きほこる花、

遠く離れた山の上で

われわれはどのようにしてあなたを

嘆き悲しむことができるのか、

ああ、キリストよ?

天は静寂の

ゴルゴタの丘の周りで

うめき泣く湖だ。

ああ、十字架のキリストよ、

あなたを凝視できるよう

われわれをじっとさせてくれ。

             (『カトリック教会のナイチンゲール』所収)

 

 

寓話的喜劇としての『大きな鳥と小さな鳥』

カトリックにも好評だった『奇跡の丘』で国際的にも高い評価を得た後、パゾリーニは『大きな鳥と小さな鳥』(一九六六)という寓話的な喜劇映画を撮っている。これは今までの作品とは全く趣を異にしたものといえる。『アッカトーネ』『マンマ・ローマ』ではローマのボルガータに住む下層民の絶望的な現実を悲劇的なリアリズムで描き、『ラ・リコッタ』では一転、喜劇的な色調で食べすぎたボルガータの男を十字架上で頓死させてしまう。さらに『愛の集会』では性愛をめぐるイタリア人の意識を探るべく、イタリア全土の農村や都市の街角に繰り出し、そのインタヴューをカメラに収めた。そして『奇跡の丘』では神話的な聖書の世界を、観る者の心に迫る心理的にリアルな映像で創り出し、宗教の原初的な姿に迫った。このように、パゾリーニの映像作品はそれぞれ違った構想、スタイルでつくられ、それぞれが違った色彩を放っていることがわかる。そこで、あえてわかりやすい共通項を挙げるとすれば、作品が主人公(『愛の集会』は除く)の死をもって終わっているところである。それも『アッカトーネ』を除いて、十字架上での死ということになる。それはパゾリーニ作品に一貫して流れる通奏低音と言えそうだ。

この『大きな鳥と小さな鳥』は、主演にイタリアを代表する喜劇俳優トト(一八九八~一九六七)を据えた、寓話的な喜劇であるという点でいままでのどのパゾリーニ作品とも似ていない。まず、冒頭のクレジットが楽しい歌によって紹介される。

〈おばかなトト いかれたトト 優しいトト……純真で抜け目のないニネット・ダヴォリ……この映画を監督してその名声が揺らいだピエル・パオロ・パゾリーニ〉

といった感じである。トトはパゾリーニのオムニバス短編の『月から見た地球』『雲とはなに?』にも出演しているイタリアでは有名な俳優だが、その作品はなぜか日本にはほとんど紹介されていない。したがって、残念ながらこの『大きな鳥と小さな鳥』などわずかな作品でしかその姿を見ることができない。トトは六七年に亡くなっているから、パゾリーニとの仕事はトト最晩年の映像作品ということになる。ニネット・ダヴォリは『奇跡の丘』に小さな役で登場するが、この『大きな鳥と小さな鳥』以降、パゾリーニ作品の重要な要素となっている、パゾリーニお気に入りの俳優である。

トトとニネットは親子という設定で、トトは山高帽にネクタイ、寸足らずのズボンにステッキ代わりの雨傘といういでたちで、息子のニネットとともに開けた平野のなかを一直線に走る道をはるか地平線からとぼとぼと歩いてくる。こうしてこの奇妙な二人が様々な人々に出会い、様々な経験をしていく、この寓話的な作品は二人が通過し体験する一連の試み、それぞれが物語的な連続性をもたない試みから成っている。

二人はラスベガスという名のバールにたどり着き、そこで酒を注文する。奇抜な髪形のバーテンダーの男とトトの奇妙な会話と視線のやりとり、トトの滑稽な顔の表情が面白い場面である。ニネットは外に出て、若者たちの踊りに見入る。若者たちはバスが来ると慌てて、バスを追いかけて行く。ただそれだけのシーンであるが、どことなく、フェリーニの『青春群像』を思わせる。さらに歩いていくと、集合住宅の前に人だかりがしている。しばらくすると、二つの遺体が運ばれていくのが見える。トトは住民に何があったのかを聞くのだが、よくわからない。わからないままに、この場面も終わるのだが、その後二人が建設中の高速道路を歩くところで、トトが語る。「金持ちの死はツケと同じだ。人生の恩恵を受けている。だが、貧乏人は人生から何の恩恵も受けない。哀れなもんだ」これがその場面の説明のようだ。

この建設中の高速道路の映像は経済発展の象徴というよりは、どこか壊れかけた未来を思わせ、印象的なものだ。そしてそこに、もう一人(一羽というべきか)の主人公しゃべるカラスが現れる。二人がカラスにどこから来たのかと問うと、

〈イデオロギー的に言うと故郷は首都で、未来都市カール・マルクス通りの……〉

トトが応じる。

〈わしらは純真の郊外で、飢餓の山通り、無学の聖者の殉教の地だ〉

このカラスは明らかに左翼知識人の隠喩であるが、パゾリーニはこのカラスは自伝的なものであり、自身の変則的な隠喩であると言っている。そしてトト親子がボルガータの下層大衆であることも明らかである。カラスは二人にこんな言葉をかける。

〈あなたたちの無邪気さと素朴さは宗教的なものだ〉

これはパゾリーニが宗教の本質をどこに求めているかを示していて、さらにパゾリーニの下層大衆の存在に対する〈信仰告白〉のようで興味深い。そして、こんな詩的なイメージの言葉が挿入される。

〈郊外の道をまるで支配者のように歩いていく。そして夜明けとともに労働者とバールに入り、天使の格好をした娘にキスをし、それから死について話をする〉

その後、カラスは二人と行動をともにする。そして、タイトルともなっている「大きな鳥と小さな鳥」のエピソードである。一二〇〇年頃、「われわれに必要なのは再び創始することだ。想像力を失った信者にキリストの証言を。歓喜と純粋な力を」と説く聖フランチェスコはトトとニネット扮する修道士に、鳥に説教するよう命じる。この場面はまさしくロッセリーニ『聖フランチェスコ』〈引用である。一年余の修行でトト修道士は鳥たちと会話を交わすことができるようになる。大きな鳥タカと小さな鳥スズメである。スズメとは飛び跳ねること、子どものように跳ねることで言葉を交わす。鳥たちと意思を疎通させて、〈愛〉を説くのだが、エピソードの終わりにタカはなんと二人の目の前でスズメを捕らえ、食べてしまう。ここに教会が現実の階級的分裂に目をつぶり、〈愛〉の普遍性を説く欺瞞を見る(例えば、ファビアン・ジェラール『パゾリーニあるいは〈野蛮〉の神話』)のはたやすいことだし、おそらくそうなのだが、このパゾリーニのロッセリーニからの〈引用〉は寓意を語るに平板で、パゾリーニがロッセリーニを評していう〈創造的リアリズム〉からは遠いものだと言わねばならない。

このエピソードのあとにナレーションが入る。

〈疑いを持つ、あるいはうっかりしている人のために、カラスが左翼の知識人であることを思い出し、パルミーロ・トリアッティが死ぬ以前のことを語ろう〉

ひとつはこうである。トト親子は用を足そうと、「私有地」という看板のある土地に入り、そこに格好の麦わら小屋を見つけ入る。それを目撃した私有地の男たちが「浮浪者だ、殺してやる」と叫びながらやってきて、二人を恫喝すると、トトが怒りだし男たちをカサで打ちすえる。すると、それを見ていた私有地の大柄の女が銃を撃ちはじめ、てんやわんやの騒ぎとなるというものである。もちろん、コミカルな要素の多いシーンではあるが、これがなにを寓意しているのかはよくわからない。

二つめは、「奇妙な中国人の住む田舎家」とでも呼ぶべきエピソードで、わたしはこの話がこの作品のなかで一番好きである。笑えるのかと言えばそうでもなく、心の暗い部分で大笑いできるとでも言えばいいだろうか。ここでは、どういうわけかトト親子は借金の取り立て屋となって、とある田舎家を訪れる。屋根に上って何かを取ってきた女は二人を家のなかに招き入れ、取ってきたものを鍋のなかに入れる。部屋には椅子に座った男が身じろぎもせず、目を見開き、前を向いている。ここではピカレスクな役柄の二人はその男に向かって、借金を返すように要求する。それに対して男ではなく、女が「もう何も差し出すものはないのよ」と叫ぶ。すると突然、二階から「ママ、ママ!」という子どもの声がきこえてくる。母親である女は「まだ夜中よ、寝てなさい」と子どもをなだめる。その「夜中」という言葉にいぶかるトトに、女は「食べさせるものがないから、四日間夜中だと言って、寝かせているんです」。今度はニネットが鳥の鳴き声に気づく。「ツバメ?」、すると女はなぜか「チネーゼ(中国人)、チネーゼ!」と叫ぶ。中国人だから、ツバメの巣は食材なのだ、と言いたいのだろうか。そしてトトが「何もないのなら、家を取り立てようか」と脅すと、女はひざを床についてトトのほうににじりよって、そうしないよう懇願する。このしぐさはどちらかと言えば、日本風ではないのかと思ったりしてちょっと笑ってしまうところである。そしてまた、二階から「ママ、ママ!」「まだ夜中よ、寝てなさい」。それを潮に二人は「また来るからな」と言い残し、立ち去る。二人が帰ると、女は湯がいたツバメの巣をテーブルの上に置く。すると一度も口を開くことのない男は相変わらず黙ったまま、テーブルにつき、ツバメの巣を食べ始める。正面を見据え、まるで皇帝のように。

このエピソードには、革命前の列強国による中国の経済的な支配、大衆の貧窮、中国に強く残る封建遺制などが巧みな構成と暗示でみごとに表現されている。このようなピカレスクな寓話には循環するような、終わりのなさがある。今度は二人が借金を返す立場となって、ブルジョアの館へ借金の返済猶予を頼みにいく場面が続く。