「ロッセリーニとブレヒトの時代は終わった」

パゾリーニはこの作品を〈観念喜劇〉と呼んでいる。この言葉をうまく理解できないとしても、「奇妙な中国人の住む田舎家」のエピソードは、中国における大衆の貧困と封建遺制の関係が皮肉のまじった〈笑い〉とともに表現されているという点で、この言葉がよく当てはまるものだと思われる。何よりもここには、寓意を超えた奇妙な〈笑い〉がある。つまり〈観念〉じたいを揚棄するあるいは無化する黒い〈笑い〉である。

それから、大道芸人のグループとの出会いがある。トト親子は動かなくなった車を押す手伝いをするうちに、その多国籍で個性的な道化師たちと親しくなり、その大道芸を見ることになる。その時、彼らの後ろをたくさんの人々が通り過ぎ、その歩く足元だけが映し出される。これがなにを意味するのかわからない。歴史の背後に消えて行く無名の大衆を暗示しているのだろうか。芸の最中に妊婦が産気づいて、女の子を出産するというハプニングもある。これらはまるでフェリーニの映画のようだと感じてしまうシーンである。このことについて、パゾリーニは言う。

〈(この映画の)最初の部分のすべては理想化されたネオレアリズモの喚起である。他の部分は道化師のエピソードのように、明らかにフェリーニとロッセリーニに言及している。何人かの批評家はそれがフェリーニからの引用であることを理解しないで、わたしをフェリーニふうだと言って批判している〉(『幻影の規則』)

ここでパゾリーニが「フェリーニふう」という批評家の言葉にいらだっているのは、それがフェリーニの模倣という意味を含んでいるからだ。パゾリーニが「フェリーニからの引用」というとき、それは自らの映像表現のなかに表現対象としてのフェリーニの映像を繰りこんだうえで、フェリーニの映像として喚起させるということを意味しているのだと思われる。言ってみれば、パゾリーニふうフェリーニの映像なのである。

そして、カラスの言葉が続く。

〈ロッセリーニとブレヒトの時代は終わった。労働者は夕暮れのなかを進んでいく。イデオロギーは時代に遅れ、一人だけしゃべりつづけ、内容も知らずに進む人はその行方も知らない〉

ロッセリーニとブレヒトの何が終わったのかを、パゾリーニは説明する。

〈ブレヒトによる社会的な告発とイデオロギー劇の時代だけでなく、ネオレアリズモ的なタイプの日常的な告発の時代も終わった〉(『幻影の規則』)

パゾリーニはロッセリーニやフェリーニの映像を自らの映像表現のなかに繰りこみ(引用し)、それを喜劇というかたちで表出することでネオレアリズモの時代の終わりを確定しようとしたといえる。それが映像的に成功しているとは思えないとしても、パゾリーニの意企したところであり、トトとニネットの愉快な演技にもかかわらず、この作品を困難なわかりにくいものにしているところでもある。

それから、パルミロ・トリアッティ(一八九三~一九六四)の葬儀の実写フィルムがトトの回想のようにして挿入される。葬儀に集まった大群衆、嘆き悲しむ人々の姿……。グラムシとともにイタリア共産党創立に尽力した一人であり、「教養のあるスターリン主義者」として、ロシア革命後の国際共産主義運動にも関わったトリアッティは「スターリンの個人崇拝に加わった人であったばかりか、その『崇拝』をつくり上げた人びとの一人であった」(エルネスト・ラジョニエーリ。柴田敏夫『イタリア共産党』より)という正真正銘のスターリン主義者といえる。しかしここでは、パゾリーニはトリアッティの死を一つの歴史的時代の終わりを象徴するものとして捉える。それは次のようなものである。

「……レジスタンスの時代、コミュニズムに対する大いなる希望の時代、階級闘争の時代は終わってしまった……私たちが現在持っているのは経済的ブーム、福祉国家そして南部を安い労働力の貯えとし利用しはじめている工業化だ」(ジョン・ハリデイ『パゾリーニとの対話』波多野哲朗訳)

 

すでにイタリアは五〇年代後半からの「奇跡の経済」つまり高度経済成長によって、先進資本主義化しつつあった。その戦後の相対的な安定期のなかで、レジスタンスの記憶は薄れ、経済成長による労働者の賃金上昇や待遇改善は階級闘争をよりゆるやかなものにしていったのである。

『大きな鳥と小さな鳥』は、トト親子が空腹を覚え、同行していたカラスを焼いて食べてしまう。その後郊外の、遠くに飛行機の離発着が見える平野のなかで売春婦の娘(パゾリーニはこれを〈生〉の象徴だという)に出会うことで、この観念喜劇は幕を閉じ、トト親子は現実に還っていくのである。このカラスを観念的な主人公とすれば、ここでもパゾリーニ作品の主人公は作品の終わりに死んだことになる。下層大衆であるトト親子によって、パゾリーニ自身の反映でもあるマルクス主義者は焼かれ、食べられてしまったのだ。この大衆に食べられ、消化されるマルクス主義という隠喩はとてもいい。たとえそれが、「模写と鏡」(一九六三)に見られるように、ファシズムとスターリニズムの相似性を指摘し、ソ連・中共・イタリア共産党(トリアッティ)の政治リーダーのイデオロギー的欺瞞を抉り出し、〈住民大衆〉に政治権力を移行することのないマルクス主義的政治革命に根底から批判を加えているわが国の吉本隆明のような論理的な構築性はないとしても、パゾリーニの詩人・文学者としての感性はマルクス主義の〈現実〉を見失った観念的な虚偽を見透していたのだといえる。