〈生きていることも、死んでいることも、同じことだ〉
『大きな鳥と小さな鳥』があまりにイデオロギー的であったがために、寓意性にも喜劇性にも不十分な作品であったことをパゾリーニ自身も自覚していて、それを補うような形でオムニバス映画の短編を二つ撮ることになる。一つは、他にヴィスコンティ、デ・シーカ、フランチェスコ・ロージ、マウロ・ボロニーニといった巨匠が名を連ねる『華やかな魔女たち』(一九六七)のなかの『月から見た地球』、もう一つはマリオ・モニチェッリなどが参加する『イタリアふう気まぐれ』(一九六八)のなかの『雲とはなに?』(筆者未見)である。
『月から見た地球』は『大きな鳥と小さな鳥』同様、トトとニネットのコンビを起用し、さらにシルヴァーナ・マンガーノを加えて、パゾリーニの知的な要素を剥ぎ取ってしまったかのような喜劇を展開している。だから、『大きな鳥と小さな鳥』よりもずっとトトというナポリ生まれのコメディアンを楽しむことができる。
トト演じるミャーオ(猫の鳴き声の意)とその息子ニネットは亡くなったばかりの妻・母の墓の前で泣きじゃくっている。そこで二人は新しい妻・母を見つけようと考える。未亡人、売春婦、そして街で見かけたマネキン人形を美女と見まちがえ、話しかけようとするが、その直前に業者の男たちがマネキンを車に乗せて立ち去ってしまう。何のことか全くわからず、悲嘆にくれる二人に一年が過ぎ、ある日シルヴァーナ扮する聾唖の美女アッスルダ(おばかさんの意)と出会う。二人はすっかりアッスルダを気に入り、彼女を身ぶり手ぶりで口説き、ミャーオとアッスルダは結婚する。ミャーオは彼女を家に連れていくが、それは家とは名ばかりの崩れかけたバラック小屋だった。なかはゴミだらけで、そこをアッスルダはおとぎ話の魔法のようにきれいにしてみせる。でも、人は決して持っているものに満足しないもので、ちょうど彼らのバラックの目の前に、新しい家が売り出されていたので、彼らはそれを買いたいと考える。そこでミャーオが一計を案じる。アッスルダがコロッセオから身を投げると脅し、それを下にいるミャーオたちが病気の子どもを抱えた母親にはカネが必要だと騒ぎ立てて、集まったヤジウマたちに募金をつのるという計画である。しかし、ほとんどうまくいったところで、旅行者の捨てたバナナの皮に足をすべらせたアッスルダはコロッセオから落下し、本当に死んでしまう。絶望して泣き叫ぶ二人だが、家に帰り思い出の残る部屋に入れないでいると、なかからドアが開き、なんとそこに骨と肉を具えたアッスルダが現れたのである。それがなんであろうと、喜び抱き合う三人。世俗にまみれた、心地よい笑いに満ちたこの寓話の結語が最後に示される。インド哲学にインスパイアーされたという、いかにもパゾリーニ的というべきか、作品の笑いの軽妙さを吹き飛ばすような皮肉な響きをもっている。
〈生きていることも、死んでいることも、同じことだ〉
最後に、『雲とはなに?』で歌手のドメニコ・モドゥーニョが歌っているパゾリーニの歌詞の一節を掲げる。
〈ぼくは地獄に堕ちて当然だ きみを愛さないのなら。
もし、そうでないのなら もう何もわからなくなってしまう。
ぼくの狂気の愛のすべて それを空は吹きとばす
それを空は吹きとばす…… こんなふうに。〉