◯midnight book review

 

「漂泊の旅人、言葉を彫り込む

      井上輝夫『青い水の哀歌』について

                               伊藤行雄

 

 

このたび、ミッドナイト・プレスより詩集『青い水の哀歌』が上梓された。二〇〇五年に同じ出版社から刊行された詩集『冬 ふみわけて』が刊行されてから十年目。最初の詩集『旅の薔薇窓』(一九七五)からかぞえると五冊目になる。もちろん、井上さんはその間に多くのエッセイ、評論集、翻訳などを出版されている。

あらためて井上輝夫さんの最新の詩集を二度、三度と読み返してみた。詩篇には具体的な場所や風景を髣髴とさせる詩句はあまり見受けられないが、そのようなことは詩を読むうえで大した問題ではない。野道や森、川べりを散策し、思索するとき、豊穣な自然は言葉を越えた存在ともいえよう。井上さんは言葉によって描きだす情景やその中に生きる植物も動物も、単に言葉で描く以上の、言葉を超えたものとしてとらえている。

それでは、この情景を心象風景としてとらえるだけで、あとに残るのは沈黙することだけしか道はないのだろうか。言葉をむなしく消費しないぎりぎりのところで、この風景を言葉によって「存在の明るみ」としての詩作品のなかに再創造するにはどのようにすべきなのだろうか。

この言葉と詩作への想いは、井上さんの生涯の課題でもあるといっても過言ではないだろう。井上さんの言葉によれば、森羅万象は詩人の記憶の古層に積み重なり、混交して、ようやく、ういういしい言葉で再構築されるわけだ。川の流れる音、碧空にたなびく雲の峰、道端にたたずむ地蔵や道祖神も、星がたなびく夜空も、言葉を越えた圧倒的な存在なのだ。観た現実を無名な心象に還元して、それをあらたに甦らせるのは詩人自身が磨きつづけてきた言葉の構想力ともいえよう。そのとき詩人は、安曇野の自然がそこに「ある」ことを読者に思い起こさせる、言葉の「何か」を見つけるかもしれない。この「ある」とは、井上さんの最近の詩によくあらわれる表現である。「ある」こととは、存在するものを、この現実に有らしめている根源をもとめてたえず問いつづけることにある。これは永遠に終わらない問いかけともいえる。

 

ここで『青い水の哀歌』の「あづみ野」の詩篇から「ひそかに魂は」を引用してみよう。

 

ひそかに魂は

山のいただきに帰るという

うす化粧して……

熊棚の下のこみちを

眼下にエメラルドの湖水

ルビー色にそまる白鯨の雲

谷に煙 うす絹にたなびく

さわがしい祭りの栄華もとうにおわり

いまは白髪三千丈に染まる爺ケ岳

どこかでコノハズクが鳴く

ブッキョッコー

なんだ

おまえは仏陀の弟子か

十三夜に

月を鏡に余命かぞえる

 

この詩にはめずらしくカタカナが多く使われている。言葉遊びもあり、どこかユーモアを感じさせる詩であるが、井上さんの視覚や聴覚によって分節された情景は、詩人の心象風景となって再構成されている。まるで一幅の絵をみせられているような錯覚におちいる。そして最後の「月を鏡に余命かぞえる」という詩句で、一気に詩全体へ緊張感を走らせている。この詩にかぎらず、井上さんの詩の一行一行は、年を経るごとに短い表現を駆使することによって、言葉の装飾を削ぎ落としているようにさえ感じる。

 

どれほどの赤い実が落ちたのだろう

ぽちゃん ふたつ ぽちゃん

水に浮かぶもみじの葉の

ゆれてふわふわ

青いうろこの魚一尾

 (「青い水の哀歌」五より)

 

この詩句には擬声語、擬態語から生まれる、かろやかな音のおもしろみが読者の目を引きつけながら、言葉はいちだんと引き締められている。沈黙との微妙な境目のところで、かろうじて詩作はたもたれているといえよう。『青い水の哀歌』の作品群には、ひらがな、カタカナが散りばめられ、視覚的にも聴覚的にも詩句の色彩とリズムが整えられている。こうした技法は「あとがき」で井上さんが書いているように「伝統的定型詩やいわゆる近・現代詩、あるいは詩と呼ばれる行わけ短文などを再検討し、言語の性質をおもい、詩歌のもつ本来の大きな可能性へいま一度目をひらき踏みださねばならない」という言葉によってうらうちされているように思われる。

井上さんの詩の世界でもうひとついえることは、詩作品には都会の喧騒や文明の波のざわめきを感じさせるものはない。もちろん現実の社会で多くの怒りや葛藤を経験し、それをめぐって繰り返し思索を積み重ねて来た事実は、井上さんの書かれた多くのエッセイや評論を読めば一目瞭然である。だが井上さんは言葉をむなしく浪費する現実と詩歌で構成される世界とは意図的にきりわけているようだ。

一九七七年から八〇年代にかけて、井上さんたち三田詩人が中心的に活動されていた『三銃士』という同人雑誌に私も参加していたので、井上さんの詩人としての軌跡はそれなりに知っていたつもりでいる。とはいうものの「詩とは何か」という問いを絶えずみずからに投げかけながら、あらたな形式を模索して葛藤してきた井上さんの詩作の秘密はそうたやすく解きあかせるものではない。『旅の薔薇窓』から『夢と抒情と』、それに短い期間で一気に書いたという『秋に捧げる十五の盃』などの詩句では、詩を書くエネルギーが艶やかな言葉の綾と心に響くリズムになって作品ひとつひとつに昇華されている。燃え滾るような詩句を連ねた時代にあっても、短歌や俳句のように韻律として耳に残るように詩句を整える作業を決して忘れてはいない。そのなかでいわゆる現代詩と一線を劃すことを井上さんが自覚しながら、日本語がもつ表現の可能性をさぐり、ある種の調べ、音楽を奏でたいという想いが、詩作品を生み出すしなやかな原動力になっているといえるだろう。

井上さんの次の作品を期待してやまない。

 

 

*この書評は井上輝夫氏が逝去される以前に書かれたものです。

 

 

 いとう ゆきお 一九四五年生まれ。詩人。慶應義塾大学名誉教授。