「元気よ。とてもおとなしくなったけどね」

近く離婚するつもりだと余程言いたかったが、正式に別れたあとに言えばいいと思い直した。もっともそんな機会があればの話だった。また、壹岐さんはどうなったのとかあなたの近況を聞かせてとか、訊きたいこともないわけではなかったが止めた。桂の関心は昔話をすることにはないようだった。かといって久闊を叙するということでもない。文字通り、ただ澄子が「いびつ」を口グセにしていたことを覚えていて、自分の記憶が正しいことを確かめたかったのだった。些末なことにこだわるクセは昔もそうだった。実際桂は自分の現在については何一つ話さなかった。澄子も石崎のことを聞かれたから答えたまでで進んであの後の日々を語る気持ちはなかった。だからおあいこだったが桂は最後にこう言った。

「みこちゃんはまわりを元気にさせる人だったなぁ、とふと得難い思いに駆られたよ。一生の間に何人出逢えるかというそんな人のひとりとついに別れる羽目になったものだから、君のあのときの勇ましい姿が浮かんできた。貴重な時間を申し訳なかった。ありがとう」

まわりにはたしかに人を元気にさせる人と、そうでない人と二種類の人間が存在していると澄子もこのごろ感じていた。だから桂の言い分には心の秘密を覗かれるようなこそばゆさがある。不思議な暗合とともに、この歳月は長いのか短いのかわからなくなった。手を伸ばせば二十年前の自分がそこにいるような気がするのだった。

元気にさせてくれる人ならば寄り添う人というのがもしひとつの命題ならばその裏は元気にさせてくれない人ならば寄り添わない人、対偶は寄り添わない人ならば元気にさせてくれない人かなどとぼそぼそと反芻していると、職員室で向かい側に坐っている室井がほとんど毎日顔を合わせているのになぜかなつかしい存在となって迫(せ)り出してきた。室井は大学を出たばかりの若き数学教師、いや学徒という方が澄子にはぴったりする存在だった。

好きな男でも?  と訊かれたとききっぱりと否定したが澄子は恋をしている。室井のことを考えると胸が万力を当てられたように硬直する。なんていびつなことだ、ひとりごとのように澄子は呟いた。これが二〇年ぶりにつかう自分のことばであるのだろうか。