二 現代詩のなかの詩と小説――川上未映子の場合
1 散文とその仕組み
初体験としての「散文」 個人的なことから入れば、彼女の作品で最初に目にしたのは、ある「散文」である。鍵括弧「散文」とするのは、随想とかエッセイの類で括られるのを拒んでいるからである。拒むのは彼女自身というより文体である。『すばる』二〇〇七年一一月号に載せられた「散文」である(後に『世界クッキー』文藝春秋二〇〇九年、文庫化二〇一二年)。タイトルは、「揉まれることに集中すれば」。編集部が用意したページタイトルは、「すばる文学カフェことば」。「散文」でなければこの「ことば」。まさに妙なタイトルから言っても括弧つきの「ことば」とすべき態様である。乱舞・乱心・乱立然を恣にした、まことにめくるめく「ことば」の、突き出し・繰り出しの一気呵成だからである。冒頭部分を掲げてみよう。
さっきから静かでうるさい、息はしてるが真空みたいで突き刺さる、思えばもうこの数日、誰とも話す機会もなく音楽もなく、の生活であって、心機一転、ここはひとつテレビでも、つってソファに飛んでぷっと電源をオンにしたらばどばっと即席に光はあふれ、ああ、明るい、音も、電気ってすご……、と感心、せっかくなので画面で起こっている様々なことに注意してみれば、テレビのなかは喜怒哀楽、悩み悩まれ、説教とありがとう、などなどで埋め尽くされていた。
書き出しの二センテンスは、句点をあえて読点に変えて、「思えばもうこの数日」以下の弾みの助走としているが、それにしても句点で途切れてしまうことを怖がるような、それでいて小気味よさへの執着心を露わにした、矛盾を承知で抱き合わせたような綴り方である。とっさに浮かんだのが、樋口一葉であった。後に知ったところでは彼女は一葉を愛読していた様子である(川上未映子対談集『六つの星々』中の松浦理英子との対談中)。近年では「たけくらべ」の現代語訳を試みている(池澤夏樹個人全集・日本文学全集一三、河出書房新社、二〇一五)。以前から相当読み込んでいたに違いない。影響も受けていただろう。だからと言って引用に明らかなように模倣でもなんでもなく、独自の文体である。その上での想起である。以下は任意に引いた一葉の一くだりである。
待つ身につらき夜半の置炬燵、それは恋ぞかし、吹風すずしき夏の夕ぐれ、ひるの暑さを風呂に流して、身じまいの姿見、母親が手ずからそそけ髪つくろいて、わが子ながら美しきを立ちて見、居て見、首筋が薄かったとなおぞいいける、単衣は水色友仙の涼しげに、白茶金らんの丸帯少し幅の狭いを結ばせて、庭石に下駄直すまで時は移りぬ。(「たけくらべ」五、冒頭)
文語体のもつ、独特な用言の使い回しや、助詞や連体止を折り重ねた文の引き延ばしは、一葉の同時代の明治二〇年代の小説文に広く認められることで、なにも一葉に限ったことではないが、それでも一葉の文体からは纏いつくような独特な気分が立ち上がり、それが一葉と気脈を通じたかのような川上未映子の文体に再現されているのである。
それにしても独特である。あえて細かく見れば、即座に分かるように「ここはひとつテレビでも、つってソファに飛んで」で、普通の口語体に言い直せば、「ここはひとつテレビでも観ようと思って、ソファに飛んで」であるが、これではいかにも凡庸極まりない。「電気ってすご……、と感心」は書き直すまでもないが、「すごい」の「い」の三点リーダ化でこれだけの効果を上げてしまうわけである。根っからの大阪弁に勢いづいた言語感覚によるものか、少女時代から磨き鍛えてきた不断の努力によるものか、両者による合わせ技だと思われるが、浮かぶのは未生の〝ブンガク少女像〟である。
樋口一葉
壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/ ツイッター:https://twitter.com/hawatana1
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