2 饒舌の封印
『ヘヴン』への評 天地の二分の一を超えるほどの幅広の帯(単行本)は、文芸評論家から大手の書店員までの多数の評言(エッセンス部分)で埋め尽くされている。ちなみに筆者が求めたのは第八刷であるが、第一刷から三か月しか経っていない。本論に関係するものをいくつか拾ってみよう。
それぞれ全体から切り離された断片である。いちいち寸評を加えるべきではないかもしれないが、それを承知で本稿に恣意的に引き寄せて、適宜コメントを加えれば、イでは、「濃密過ぎる言葉の羅列」が問題。「直截的すぎる」が筆者の印象。言い換えれば「直截的すぎる言葉の羅列」である。さらに言えば「赤裸々すぎる」が至当である。
ロでは、「内容がいかに悲惨であっても」の箇所。内容ではなく描き方がそうしているわけだから、結局、これも筆遣いの問題で、要は「赤裸々すぎる」筆致なのである。
ハでは、「これはシンプルで深い」のくだり。ほかの評言ととらえ方が違っている。前後に当たらなければならないが、「シンプルで」ではなく、「(筆致が)ダイレクトで深い」なら分かる。でも本稿執筆者の場合は、「深い」ではなく「重い」と言い換えることになる。ヘの「すべてをさらけ出して『見ろ』と迫ってくるようでした」はまさにこれである。そのまま「ダイレクト」の解説となっている。
以上に対してもっとも本論に密接なのが、ホの「饒舌な文体を封印してこの作品に挑んだ著者の意気込みを感じました」である。この評者は、言い回しから見ても川上未映子をよく読みこんでいる。「著者の意気込みを感じました」やその続きを書店員の立場が言わせた部分としてよければ、現場の評者が言いたかったのは、前置きをなす「饒舌な文体を封印して」の部分となる。とくに「封印」である。言い得て妙の用語法である。
あえて得意技を使わないで、と言っているが、実際は得意技では対応しえなかったのである。評者としても分かっている。それはそうである。扱おうとしているテーマが、普通のいじめではないからである。
壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/ ツイッター:https://twitter.com/hawatana1
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