3 「文体詩」の展開
文体を必然とする詩 詩と小説の問題を前にした時、『ヘヴン』と『わたくし率 イン 歯ー、または世界』さらには『乳と卵』との違いに見いだせるのはなにか。偏に「現実」である。現実は片や小説を書かせ片や詩を書かせる。本来一つの現実が二様に分かれる必然が問題になる。同時に二様を二様のままに必要とする必然が問われる。必然の在り方を含めてそれも現実の一つの姿である。如何にも型にはまった語り口だが、川上未映子に詩が必要であるのは、必然を容れなければならないとき、言葉以上に文体が必要だったことに起因する。
その意味で川上未映子にとって詩の必然は、文体にあり、文体の必然は、「現実」(「ゲンジツ」)にあった。そのときコトバは、言葉を生み出す以上に文体を生み出すためにあった。さらに言えば、意味との取り結びもコトバにあるのではなく文体にあった。そして文体が文体として創り出す意味、それが散文を詩にする秘密だった。ゲンジツとの再会もその先にあった。それはいずれあらたなコトバとの出会いに繋がっていくことになる。
ゲンジツには、生きていることの現実を含めて、すべてが詰めこまれている。過去も未来も過ぎ行く現在も、つまり時間のすべても、見たものも見たいものも今見えているものも、つまり空間のすべても、悲しみも苦しみも今ある喜びも、つまり気分も、そしてその気分に揺らめく心も、心とその裏返しである表情も、正常を保とうとする、あるいは異常に傾いていくいずれかの精神作用も、すなわち人に関わる個別も全体も、それを生存状態に組織化する形而上的・形而下的な本能も、かくして彼女の本能的欲望――彼女流には「形而中」の「純粋悲性批判」の対象に晒されていく。彼女の場合、かく在ることを、かく在るようにしている裡に自分を連れ出さずには、どうにも欲望は収まる気配を見せない様子である。理由はない。気質である、少女の気分を原資とした。
だから簡単ではない。最初から「文体」があったわけではない。むしろ自分のなかになにか形をなそうとすれば、条件反射的に違うと懐疑的に身構えてしまう気分がある。反発気分にもなってしまう。思い込みが強いからである。でも本当は純粋さに鋭敏なためである。なら反発だけを書き出す。書き上げてみる。その瞬間々々、場面々々に自分から揺れ動いてみる。身も心も委ねる。心身に発露を求める。それでいい。そうしよう。それも少女の気分というものの内側のあり様である。
しかし、ここにその気分をも問いたててしまう、もう一つの気質が潜んでいた。「悲性」であった。いずれ世界を、見慣れた周囲によって、馴染んだ身体によって再編成せずにはいられない、その想いの過程が、様々にコトバを呼び出し、繰り出し、一つ一つ手応えを験すかのように、組み合わせ、組み替えていく。それでもなお思うような満足感を得られないとしても――どうやら自分には「詩」は似合わないようである、としてその思いが一層強まるとしても――不足感を含めてすべては、はじまりを持った一つの過程であることにはたと思い至ったとき、過程それ自体を再編成するなかに、どうやら再現実化が図られる模様であると、納得的で覚醒的な内面感に裏返る。かくして詩的契機を「文体」に見出す詩作が、言語行為として、散文契機に付加される形で始められていく。曰く「文体詩」の展開である。現代詩は新たな詩的叙述を得たのである。その没入度の過剰において。
壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/ ツイッター:https://twitter.com/hawatana1
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