付論
反歌の歌体論~長歌と短歌~
詩と小説の問題は、唐突な感が否めないかもしれないが、遠く万葉集に遡る課題である。付論というより参考として、詩と小説の問題の文学史的性格に関心の赴くままに言及しておきたい。
具体的には長歌と短歌の関係である。直接問題になるのは、対置的な意味で短歌が長歌に対してとる、言わば自己起立的な問題である。ここで言う対置関係とは、長歌が採られた巻に限って短歌という呼び方がなされているという、短歌と呼ばれる経緯(岡部一九七三)を、詩と小説の問題に発展的に捉え返したものである。
具体的には、短歌が長歌にとってみせる、単に応ずるだけでなく、受けて立っていかに自らを主張するか、自律性をどのように発揮するのか、あるいは擁護するのかの、言ってみればアイデンティティの確保に関わる問題である。この問題が直接的に発揮されるのが、長歌の後に置かれた短歌すなわち反歌の場合である。長歌の単なる付け足しでないことの自己顕現、それこそが短歌のアイデンティティにほかならない。このアイデンティティに関わる対置関係は、読み替え方によって今回の詩と小説の内的問題になる。以下、門外漢を承知の上でやや専門的な事柄に触れる。
三十一文字という表現形式が、長歌の量的過剰性に伍する内力を如何に発揮するか。それはある意味きわめて単純ながら、五七五七七の歌体構造に極まる。とりわけ区切れ(五七・五七・七/五七・五七七/五七五・七七)が創る、短詩形下における凝縮度の高さは、歌体原理を同じくする長歌(五七の複数回繰り返し(三回以上)に七の添加)から短歌を内的に分かつ。一例を引けば、柿本人麻呂の反歌が、自律性を如何なく発揮して、異なる歌体間で演繹的あるいは帰納的に情感の高まりを構築して見せる。
例証歌は、近江荒都歌(巻一、二九)及び反歌(三〇、三一)である。荒れ果てた近江の都(天智天皇)に対する哀感を漂わせた歌である。引いてみる。
近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌
玉襷 畝傍の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし 神のことごと 樛の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 天にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離る 夷にはあれど 岩走る 淡海の國の 樂浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の尊の 大宮は 此處と聞けども 大殿は 此處と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮處 見れば悲しも(二九)
反歌
ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ(三〇)
ささなみの志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも(三一)
長歌は、内容的には大きく二段からなる。「玉襷 畝傍の山の」から「いかさまに 思ほしめせか」までを前段として、後段をどうして近江に遷されてしまったのかの想いを忍ばせた、「天離る 夷にはあれど」以下とする。しかし韻律としては途切れることなく、「思ほしめせか」の「か」を切り替え点かつ反り上り点とし、かえって反語遣いに勢いを得ながら、後段に向け声調を連続的に煽り高める。そして、前段から続く五七を二句対にした声調によって切々と哀切感をいやましに高めながら、「ももしきの 大宮処 見れば悲しも」と述部に切り上げる。この句末に特化した述部の使われ方が、いかにも特徴的である(清水一九七三)。
これに対して、五七五・七七型の区切れの反歌の韻律の違い(述部の違い)が創る自律性は、「目を宮跡から湖畔に転じ、長歌を意識的に展開させ、双方をもって対照的に構成している」(橋本一九七三、以下同じ)と評される中に確認されところであるが、長歌さらには反復する「サ」音の音楽効果(「打寄せる浪の響」)が特徴的な一首目をも受けた二首目が創る反歌的アイデンティティは、対置関係を止揚してあらたな臨場感をさえ呼び醒まさずにはいない。それもかく評されるからである。すなわち「『昔の人にまたも逢はめやも』の悠然とした結びは、(略)長歌以下の全重量を支えて一篇を閉じるにふさわしい」と。その支点を果たすべきものと目されるのが、「も」一字の使われ方であるが、この「『またも』の『も』の字余りが強く働いて」重量感を支えるの卓見に至っている点は、技術論を超えて、長歌と反歌がつくる問題を歌体論から表現体論に押し上げて余りある。現代詩的脅威ともいうべき一字の力である。
短歌の短歌たる所以が、こうした一字に集約されるような凝縮度を生命としている限り、歌体としての短歌の存立は、単独である以上に反歌という姿のなかに独自性の強い表現体を顕現する。その後の歌の歴史が早々に長歌を廃れさせてしまうことによって、単体としての短歌(和歌)のなかに反歌ほどのアイデンティティの確保を同時進行的に必要とする作歌の契機は、相対的に希薄化し、単体の姿を基本としてその後の時代を時代ごとの文学環境のなかに発現していくが、原点に立ち戻って反歌が内発するアイデンティティから他の表現体に目を移し、同質の発語性に晒されるものとして詩を見るとき、反歌ならぬ反意を内包した詩独自の緊張感に思いを新たにする。事のはじまりと見定めるところである。
もっぱら伝統詩(和歌・漢詩)への反意を露わにした創成期はともかく、本稿が問題にした明治三〇年以降の詩にとって、小説は新たな反意的対象となる。藤村・花袋ではその反意からもまるごと転出して何も残らないが、室生犀星を一始点とする詩と小説との両極性を採る者には、長歌と反歌のなかに見極める対置関係は、自らの「反」の出処を問い質し、両極性そのものを問い返させずにはおかない。再考の範囲は、近代詩にとどまらない。川上未映子にまで下ったとしても、否、下れば下るほど、歌体論の緊張を今に蘇らせ、表現体論の原点的体験を促さずにはおかない。詩を詩としてのみ生きる一極性を、短歌ではなく反歌に読み替える仕法もある。向かう先をより強く内に感じなければならなくなる。この読み替えを含め、総じて詩論の範疇である。
彼らを文学史に読み直す意義は、かく双方向的である。柿本人麻呂は傍らにいるのである。反歌が生きた詩的体験となる所以である。
テクスト
引用・参考文献
壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/ ツイッター:https://twitter.com/hawatana1
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