島崎藤村の転身 同じ明治三〇年に第一詩集『若菜集』を刊行した島崎藤村にしても同じである。藤村にとって詩は、「青春の記念」「小さな足跡」「若かりし日のおもいで」「若かつた日の旅の形見」でしかなくなっているからである。しかも自分から進んで言ってみせるのである。以下のとおりである。
あゝ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草四つの巻とはなれり。われは今、青春の記念として、かゝるおもいでの歌ぐさかきあつめ、友する人々のまへに捧げむとはするなり。(『藤村詩集』「合本詩集初版の序」明治三七年)
私は今、斯の書が改装されて、もう一度読まれる日のあることを思つて見る。自分の着けて来た小さな足跡は斯の古い木の葉のやうな詩集の中に僅かながらにも残つて居る。(同「合本第十六版の序」大正元年)
仏蘭西の旅にある頃、私はこの詩集の編み直しを思い立つた――若かりし日のおもいでにもと。(同「改装詩集のはしがき」大正六年)
あゝいふ詩集も今日まで読まれるといふことすら、自分には不思議なくらゐです。「若菜集」は仙台での旅情、「落梅集」は千曲川のほとりでの旅情で、いづれも私には、若かつた日の旅の形見のやうなものです。(「『若菜集』時代」『日本詩人』大正一四年)
読み取りたいのは、自己批判である。転出などという戸籍事務的な言葉を使ったが、実体は離反である。過去の否定や止揚の上になされるべき手合いのものである。しかし、明らかなように、自分に責任を問うのとは程遠い言い回しである。問う以前であるし、発想自体が問いを自分に批判的に向ける形になっていない。逆である。むしろ自己納得的であり、語り口は内済に帰着する形にとり揃えられている。
ここに知るのは、「内済」を使えば、詩作が内済を契機とし、かつ結果ともなっている水平状態である。両端が均一に釣り上げられているのである。力学的には均衡を保ち続ける状態下にある。釣り上げているのは、情感の緒である。水平に揺れ動くことはあっても、上下に激しく揺すぶられる、不揃いの緒の長さにはなっていない。そもそも「緒」自体に思いが至っていない。問いは最初から生まれようがない。あっても感慨である。
しかし、元来は、批判的に捉えかえされなければならない。詩からの離反が、小説への転身を契機としているのなら、詩との関係を清算的に問いただすべき契機にもなるはずである。それが一記念や思い出などでは如何ともしがたい。「序」の書きぶりでは、まるで読む側にも是認・追認を求めるがごとき始末である。無責任なと言っても、端から責任外の地点に立つ詩であり詩作である。かえって潔いほどである。
写真帳に擬えれば、前の方の頁にモノクロームの写真が貼ってあって、途中からカラー写真に変わる、一冊のアルバムを思い起こさせる。間に扉を立てなくても前後関係にさほどの違和感はない。モノクロームはしっかりと思い出に落ち着く。アルバムとしても破綻しない。藤村の詩の落ち着き方であるし、小説との関わり方である。最初から予定項目化されていた写真帳作りであった。次の処女小説(「うたゝね」)の「はしがき」(巻頭言)が語るのは、詩との向き合い方を含めて、詩から小説への転身に対する第三者的立場からの自己解説である。
まだうら若い年ながら西洋人物畫を専門にする畫工が、久しく露西亜の都に留学してゐた。慕はしい故郷の空を望んで歸ろうとするとき、白髪の師匠が別れに臨んで、どんなに美しいと言はれても來因河の風景を見るなと戒めた。この畫工が日本への歸りみちに、來因河のほとりを過ぎて美しい天然を眺めたときは、果して人物畫の筆を捨てゝ景色畫を作ろうと思つたといふことです。
かりそめに自分が試みてゐる歌のしらべもとゝのはないのに、なぜ筆を物語に染めたとの問もあつた。實はしばらく人物畫の筆を措いて景色畫を作ろうと思つた若い畫工に過ぎないのです。自分はあやまつて美しい來因河の風景を眺めたのです。(「うたゝね」の「はしがき」)
日付は「かみな月二十二」、年は明治三十年である。『若菜集』刊行後二か月のことである。写真帳を使ったのは、「人物畫」「風景畫」をもじってみたかったからである。「小説を書く魅力を、藤村は巧みな比喩で語っている」(芦谷一九七七)と評価気味に読まれたとしても、ここに読み取れるのは移り気なそれでしかない。「若い畫工に過ぎないのです」にしても、謙遜にとれない。総じて窺い知れるのは、最初から「記念」「おもいで」「足跡」「形見」にとどまる詩との距離感であり、距離感に対する納得の惜別の辞である。自らを脇に置いた、利害関係の外に出てしまった第三者的態度――これ以上でも以下でもない。
壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/ ツイッター:https://twitter.com/hawatana1
copyright © 詩の出版社 midnight press All rights reserved.