2 田山花袋における詩と小説

 

詩作の経緯 柳田国男の究極的な態度に対して、文学史的には小説家として大成する上で、むしろ散文的発想の新たな契機となっていた点を含めて、大方、必要な過程であったと前向きに評価されるのが藤村・花袋である。彼ら自身としても受け容れられる文学史的評価だった。拒む必要がないからである。もし拒むなら見方は変わるが、そうはならない。結局、小説の問題となる。本物であったかどうかの。敷衍すればそのまま日本の近代小説の真価を問う話となる。ただしここで問うのは、彼らの詩の方である。

散文上のターニング・ポイントは、藤村でいえば『破壊』(明治三九年)、花袋であれば『蒲団』(明治四〇年)である。文学史上の定点的作品でもある。詩との移行関係で言えば、藤村の場合では、第四詩集『一葉舟』(明治三四年)の次の年から本格的な散文移行となっていくが(その成果は明治四〇年の『緑陰集』として刊行)、明治三七年には既刊詩集の合本『藤村詩集』が刊行される。合本詩集の刊行からも知られるように詩は異分子として抱え込まれることはない。すでに見たとおりである。以下は花袋の場合である。

花袋ではどうであったか。本来なら取り上げるべき対象にならない。詩作品の水準のためである。「詩人としての花袋は、平凡陳腐なセンチメンタリスト以上に出ず」(矢野峰人一九七二)だからである。それを詳しく見るのは、花袋が自ら評論家を演じて見せるからである。作詩体験がそうさせているのかもしれないが、現在からみると、それが挙げて彼と詩との関わりの欺瞞を暴き立てる。暴き立ては彼一人の範囲にとどまらない。採り上げる理由である。

花袋が小説に手を染めたのは、早く明治二二年からである。その後、尾崎紅葉を知るに及んで、はじめて作品(「瓜畑」)の活字化も果たされることになる。明治二四年である。その後も安定的に作品を書き継いでいく。小説に先立って開始された漢詩・和歌は、小説が活字化された以後、和歌のみが詠み継がれていく。この間、詩(新体詩)に関心を寄せる気配は見出せない。中断されることなく書き続けられる小説のなかに、突然たち現れる形で詩作の参入となる。しかも一気呵成の書きぶりである。内発的なものより人的交流(藤村・独歩ほか『抒情詩』メンバー)を直接的な契機としている模様である(芦谷一九七七)。

数篇を公にした明治三〇年一月一日(「読売新聞」)以降、矢継ぎ早の量産体制で、その年の四月には一月から書き溜めていた四一編に「わが影」の総題を付し、かつ自作に裏切られる堂々たる「序」(詩論)をつけて『抒情詩』に寄せることになる。詩作活動は、『抒情詩』以後も散発的に続けられる。それが尻すぼみ状態で立ち消えになるかと思われたところに、小説上の画期点となる明治四〇年になって突如としてほぼ毎月のペースで誌上を飾るようになる(ただし口絵風の連載詩が多い)。しかし、それを最後として同年をもって作詩は終わる。終焉となった経緯は承知していない。問うほどのこともないと思うが、「花袋における詩から小説への屈折点はきわめて不明瞭である」(芦谷一九七七)と総括されているところである。なお、『抒情詩』に寄せた「わが影」以外、全集本(没後七回忌の昭和一一年)にはその後の詩は一切収録されていない。

 

 

 

田山花袋

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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