講師:小林レント(こばやしれんと)1984年生まれ。

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・締切り十月二十日

・一人三篇以内

詩の教室 第八講  「わたしが感じること、世界のこと」

                                  小林レント

 

 

みなさん、ご投稿ありがとうございました。ミッドナイトプレスHPのリニューアルに伴い、中断のお時間をいただきました詩の教室です。

 

生活のなかで、みなさんの詩を拝読しつつ、ほかの書物にもさらされながら、「わたし」の重たさ、ということを考えていました。世界を見聞きしわかるものとしての「わたし」、世界を語るものとしての「わたし」が、同時にその世界の主役らしくなっている。たとえば、「港町は暑い」と書くのではなく、「わたしは港町で暑いと感じた」と書いてゆく傾向が、詩のみならず強いのかな、と思います。これはいくぶんモラリスティックな綴り方ですね。現行の社会において、あることがらへの物言いや自由な想念は、あくまで「内面」の感覚としてのみ許され、「そう感じたり、思ったりしている個人がいる」という小さな社会的事実になってゆく。これを先回りすると、「わたしはそう感じます(みなさんはちがっていていいです)」と言わなきゃいけなくなってきます。もちろんこれ、他者と共に生きていくためには大事なことなのですが、そのあまりにもアタリマエな了解を、つねづね口にしなくてはならなくなっているとするなら、社会のなかでの「わたし」たちの孤立は、言葉の上での登場回数に反比例するように、より深まっているのだと思います。

「犬がいた」でもよさそうなところで、「犬を見た」になる場合も同様ですね。犬と呼び表されてるソレが「いる」というのは、世界の都合なんですが、後者では今日のわたしの出来事が主軸になっています。どうも世界の方の都合に口をはさむのは、「犬なんかいねえよ」という押しの強い人にオコられそうで、「わたしは見たんだけどな」くらいでとどめておく。そして誰からもつっこみのいれられない内的な絶対性に閉じこもってゆく。ユーフォーを見つけた人の苦難ですね。詩や発言の内部でこの孤立が要請される場合や、視覚が重要な瞬間はもちろんそれを突き詰めるべきですが、ただ慢性的に、あるいは無意識的にそう言わされるのはどうにも不快なところがあります。というのは、自明のことながら「犬」って「見える」だけではないんですね。ハァハァ息づいていますし、近寄るとにおう。とてもきめこまやかな体験を総合して、驚きに満ちつつ、意外とそっけなく、「犬がいた」と、世界のことを言いたくなるときがある。わたしが今見ているかどうかなんておかまいなしに、やつらは生きてそうな気がする。そこに、社会的な孤立とはちがう、この世界に生きまた消えてゆくものの孤独な発話があるように思うのです。

 

 

睫毛  群昌美

 

吹く風に睫毛散らし

田は、畑は

刈上げられた稲の寒さを

さらに吹雪く新しい風の

ひどく強い訛りに

ひととき安堵し

春のめくられた白日に

重く、黒く

泥を塗る大きな片足が

滑り、また片足は力み

ふかい痣をつくる

 

太陽のつくる影に

ひとの影は重ならず

鉄の棒だけがぎこちなく

傾きながら

背をえんえんと伸ばしている

鳥を落とすことが

季節へのはじまりを

仄めかすように

細い腕はその技術を

目と、歯と、風を震わせて

滑らせた距離に発火させる

 

遠い屋根にさがる

乾物の焦げる匂いに

刺されたからだの上辺に

膨れあがった小さな発疹

暮れる、錆を拭う

てのひらの記号は

笑う子たちの表情に寄りそい

あさってにふり向いた

 

 

群昌美さんの「睫毛」は、言葉がつねに物の動きを喚起させます。あることがらをひとつひとつ切り分けながら、安定した状態として立てるのではなく、むしろその安定性を更新するように言葉を重ねてゆく。一連のワンブレスが長いのですね。その長い呼吸を絞ったり、拡散させたりしながら、ことを連続性をもって震わせてゆく。ヴィヴラート、あるいは節回しと言ったほうがいいかもしれません。

冒頭、「吹く風に睫毛散らし」。眼は、これはコップ、これは歯ブラシ、というふうに言葉と結びつき、事物を分かつ力能を持っていますが、それ自体もつねに風に曝されこまやかに振動している。中心となる主役がいない世界、と言ってもいいかもしれません。主語はすばやく譲り渡されてゆきます。「春のめくられた白日に/重く、黒く/泥を塗る大きな片足が/滑り、また片足は力み/ふかい痣をつくる」。重心がズレるとき、「足」としてひとそろいの歩みに統御されていた部分が、連動しつつも、いちどきまったくことなる力に凝集してゆく。また、地に「泥を塗る」ものはたちどころに、「痣」をつくる。この痣は、地につく跡、めりこみであり、また足の内部から湧き出る内出血でもあるでしょう。樹木への石斧の一振りで、石斧自身もまた、摩滅するように、この世界の力の運動は一方通行ではありません。この引用部は、不思議に、白紙をインクで汚してゆく、詩作のイメージとも響き合っているようです。詩の改行のステップと、足の運動が、瞬間、二重化する。

二連もひとつらなりの動勢のうちにあります。「鳥を落とすことが/季節へのはじまりを/仄めかすように/細い腕はその技術を/目と、歯と、風を震わせて/滑らせた距離に発火させる」。群さんのこまやかなところだと思いますが、「季節へのはじまり」というフレーズ。カレンダーどおりに花見に行って「春を感じました」というのではなく、「鳥を落とすこと」や「からだ」の中に、季節「への」先触れのような意志がすでに宿っている。世界を目先を過ぎてゆくよそごとにしていないのです。最終連、「遠い屋根にさがる/乾物の焦げる匂いに/刺されたからだの上辺に/膨れあがった小さな発疹」。ここもまた一息の経巡り、しかも一日の経験を物語るのは、意識ではなく「小さな発疹」です。それはただの虫さされかもしれないけれど、なにか沸き立つ欲求を感じさせます。「てのひらの記号は/笑う子たちの表情に寄りそい/あさってにふり向いた」、終止形もまた、ボディランゲージ。

アジアの縁の地帯の、農耕労働と山仕事の言語、世界に刻みまた世界に刻みこまれる経験。一日ひとが口を閉ざしていても、物の言語(たとえば「さらに吹雪く新しい風の/ひどく強い訛り」)は鳴り止むことがありません。それは失われてしまった原型などではないはずです。日本語の特性のかんたんな一例ですが、「お腹が空いて足に力が入らない」なんて言いますね。主体としての人間がいなくても、身体を含めた事物の呼応が実感とともに言い表されてゆく。この詩の世界の物の照応のネットワークもまた、静止しませんし、人間の自意識に束ねられていません。「睫毛」の震えの微細さに下りてゆけば、スマホを凝視し、あるいはパソコンの前に座っている今だって、静止している物などないのです。それはすこし怖い、不気味な世界ですが、つねに人間の心がつながっている世界でもあります。今作には、言葉や、言葉が喚起する対象から力を得て推進してゆく感覚があります。特有の助詞の運びが、これからどういうふうに事物の連係を掘り当ててゆくのか、期待しています。

 

 

街  草間美緒

 

とおくの葉脈も

美しい朝

 

悲しみも

伸びをして

 

歩いて

ゆく

ゆく

 

みんな

自分だけは死なないって顔で

エレベーターを待っている

ストレスを作る機械へ

入って

ゆく

ゆく

 

「もう二度と潰れたくない」

そう言った彼女の顔を

見逃した夜に

会いに、

ゆく(いくども。)

声は

倦怠した店員にもお客にも

聞こえていたよ

と肌が、

言う。

 

人間の音しかしない街にいて、

鳴きやむことない蛍の耳鳴りを

じっと聞いている。

私はゆくゆく。

 

 

草間美緒さんの「街」は、人間の造った環境でありながら、どこか人間の身の丈とずれている市街での歩行が描かれています。「とおくの葉脈も/美しい朝//悲しみも/伸びをして//歩いて/ゆく/ゆく」。「葉脈」と「悲しみ」は、対照的に、遠いところにあるのだけれど、どこか呼応している。「も」という助詞と朝のスケープが、うっかり絶縁してしまいそうな物の連関(反りかえった葉と、起床時の伸び)を切り結んでいますね。朝の葉脈のみずみずしさと、けだるい悲しみって、どちらか片一方にだけ耽溺するのが人情かもしれませんが、どちらも同じ世界の出来事である。この少しの醒め方が、詩の空間を開けたものにしています。「悲しみも/伸びをして」という表現、曖昧な意識のうちに、一個の人間やこのわたしであるよりも先に、「悲しみ」がそのまま「伸び」の弓なりをつくってく、そんな朝はたくさんある気がします。

「みんな/自分だけは死なないって顔で/エレベーターを待っている/ストレスを作る機械へ/入って/ゆく/ゆく」。テンポが上がり、意識も鮮明になっていますね。イメージと共に、言葉自身がちゃんと「街」にさらされて、わずかにむかっ腹がたっている。夜や休日に詩を書く場合(おおかたそうだと想像しますが)、ストレスだけ底だまりのように保存されていて、観念的にダラダラ書いてしまいがちです。夜の感性に押し流されて、朝を書いているのに夜の詩になってしまうことがある。しかし出勤の朝の感性にはそんな暇はなくて、この詩は「自分だけは死なないって顔」をまなざす瞬間的な怜悧さにきちんととどまっています。「ストレスを作る機械」も、シンプルですが、上昇するときに重圧のかかるエレベーターだからこそですね。

五連目は細かな改行が、想起の動きに結びつきます。「「もう二度と潰れたくない」/そう言った彼女の顔を/見逃した夜に/会いに、/ゆく(いくども。)」。反復的な思い起こしは、他者を、直視できなかったからこそ生じるのかもしれません。「声は/倦怠した店員にもお客にも/聞こえていたよ/と肌が、/言う。」。体が、無音のうちに語っていること。群さんの詩では雄弁だった身体が、この「街」においては、皮膚の微細な感覚にまで、声をひそめてあらざるをえません。しかし、自然を失いきってもいない。むしろ重圧のなかで、すこし病的に研ぎすまされてもいます。

その感覚が、結実する最終連。「人間の音しかしない街にいて、/鳴きやむことない蛍の耳鳴りを/じっと聞いている。/私はゆくゆく。」。「鳴きやむことない蛍の耳鳴り」は不思議にしっくりきます。頭で考えると、蛍は鳴きませんし、人間に聞こえる音では飛ばないものです。しかし、もしかするとそれは裏返された自然のざわめきであるかもしれません。「外」にいる蛍は「街」においては「内面」に退避し、無音の蛍光はすこし甲高い呼び声をあげる。耳鳴りの音は、どこか光のラインや痛覚を喚起しますね。五感がバラバラになっていない混淆状態は、意識の奥に息づいている野性でもあるのです。最終行、「私はゆくゆく。」。リフレインなのだけれど、いままで機械的に分かたれていた「ゆく/ゆく」が、一息に言い切られる。このわずかな言葉の身ぶりの違いで、固定的な「思い」を振り切ってゆく。

テーマは都市のストレスという、かなり蔓延してしまっているものですが、個人的な嘆きに陥いらないしなやかさを感じました。また、観念や意味だけではなく、改行や句読点、リズムでいちいちのものごとをとらえてゆく。たとえば、「ゆく(いくども。)」って、へんに体裁を整えようとすると出てこない、一回切りのたしかな言葉ですね。生が一回限りであることと、それは深く結びついています。草間さんの詩の、言葉の運動神経と五感はすぐれたものです。「自分だけは死なないって顔」をしていない詩は、集中力も使いますが、どうか市街の文法に圧迫されて、ふぞろいなものをそろえられないように、書き継がれてください。

 

 

虹ケ浜の夜  堺俊明

 

国道から虹ケ浜へ降りる信号は

いつも赤から青へ変わるのが遅い

砂浜で写真を撮ろうとして

カメラを向けても

殆ど真っ暗で何も写らない

 

灯台の光が見えてる

波打ち際だけがとても白い

目が慣れ

さっきは見えなかった

星が見える  そんな気がする

波は

黒を砕いて  薄い色に

なろうとしていた

 

気配がない

夜の海辺

砂や

海の中に隠れている

生きものたちの

微かな呼吸を聞き取れない

鈍い感受性に

僕は生かされている

 

夜の砂浜は

ちゃんと砂の柔らかさをしている

波も奥へと戻っていく

来た場所とは違うかもしれない

でも海に 今も

 

砂丘の先が

バイクのライトで

少し明るくなる

空を見たら

飛行機のなんて言うんだろう

赤と緑の光

行き先が決まっている光が見える

 

さっきよりも

もっと目が慣れてきて

ひとつしか見えていなかった

灯台の灯が

ふたつの灯だったと気付いた

 

波打ち際は

真っ白いまま

潮風を尽きる事無くつくる

足首を触った

海は

叩きつけてる音ばかりしている

 

乾いてくる唇

今までで一番大きな

波の音

 

水の手話

 

 

堺俊明さんの「虹ケ浜の夜」は、人のない世界に目を凝らしている印象。ときおり日常会話の延長線上の言葉や、独り言の世界にやすらってしまっている感もありますが、話者の口ぶりの変化とともに、詩語は夜の波打ち際に展開してゆきます。「カメラを向けても/殆ど真っ暗で何も写らない」。夜の海は、怖い場所ですね。あまり名前のあるものは見えないし、砂も海も不定形で、形容を逃れて行ってしまう。どうしても黙りがちになる世界です。「目が慣れ/さっきは見えなかった/星が見える そんな気がする」。詩語も自分の意識とのたたかいになって、視覚を維持しようとするのですが、歯切れよくはいきません。この曖昧領域はしかし、物の思いかたを、日常とはことなった方向にひらいてゆきます。

「気配がない/夜の海辺/砂や/海の中に隠れている/生きものたちの/微かな呼吸を聞き取れない/鈍い感受性に/僕は生かされている」。繊細かつ圧倒的な生死の繰り返しの世界の沈黙。それをすべて感受してしまったら、「僕」もまた呑み込まれてしまうかもしれない。話者のポジションは複雑です。じっさいのところは、感受性がまるっきり「鈍い」わけではなくて、その世界を、むしろ「気配」のなさ、沈黙の向こうにさえ想像する鋭さもあります。それは怖れあらばこそ沸き立ってくる幻視です。またそこから目を背けて、日常と地続きの自明の「僕」として生きてあることにも、どこか違和感がある。余談ですが、そうでなければ、夜の海に「惹かれて」ひとりおもむいてしまうこともないかもしれません。

四連から六連までは、いちど危うい世界から退いて、ほとんどなにもないところから、なにごとかを語ろうとして苦しんでいる感覚もあります。言葉自体というより、視線の動き方、目のとめかたのなかに、すこし不思議なところがあります。「飛行機のなんて言うんだろう/赤と緑の光/行き先が決まっている光が見える」。「行き先が決まっている光」という意識の仕方に視線が追いつめられてゆく。逆に言えば、その光のほかは、定めないところに話者が投げ出されてある。「ひとつしか見えていなかった/灯台の灯が/ふたつの灯だったと気付いた」。これは、昼の世界にとっては、なんでもない発見です。しかし夜の世界の中では、主体におのれの認識のかぼそさを突きつけてしまう。

それゆえでしょうか、これまで「気づいた」り「見え」たりする「僕」中心だった言葉が、すこしずつ変質します。「波打ち際は/真っ白いまま/潮風を尽きる事無くつくる/足首を触った/海は/叩きつけてる音ばかりしている」。不定形の海からの接触があり、認識よりも事物の運動ほうが優勢になる。「乾いてくる唇/今までで一番大きな/波の音//水の手話」。最後に残るのは、水のうねり、また、水自身が沈黙のうちに雄弁に語っていること。「水の手話」の一行は、もはや特定の語り手を欠いています。だからこそ、不思議な開放感があるのですね。怖いけれども、茫然と見入ってしまう。

詩を書くとき、いつでも「虹ケ浜の夜」が生じるのだと思います(地名の強さもありますね、あくまで具体的に在る場所なのだけれど、虹の色彩を欠いた夜、あるいは夜の無限の色彩に入ってゆく感覚が喚起されます)。世界は、よくわからない広がりであり息づきです。それに繊細さをもって開かれてしまうと、自分がなんだかもわからなくなる。逆にさかしらにわかってしまうと、ただの海、ただのゴミ、それを見ているこのわたし、なんて手早く言い立ててしまったりして、そういう「鈍い感受性」や人間のナルシシズムなしには、近代的生存は成り立たない。堺さんの詩の言葉は、そこに自覚的であるだけ桎梏を抱え込んでいるようです。この桎梏は(それを主題化してゆかれるかはともかく)尽きることがないかもしれません。わたしはこの詩の最後の水際に立つ言葉に惹きつけられます。物をまえにして、ただ無為に、言葉を発してしまう、それは詩の言葉のはじまりのひとつの地点であるように思うのです。

 

 

 *

 

 

小松正次郎さんの「夢魔」は、烈しい情愛の詩。「マルキオンは死なない/夢魔//君の脳髄をストローで吸いたい/そのときぼくの頭上に広がる君の歌声/それは青空を満たすほどに」。グノーシス派は肉体を含む物質世界を悪としますが、新約の神は(とりわけ教会にとって)至上の愛の神でもあり、キリスト教は愛の宗教を自認します。「彼らが死人の中からよみがえるときには/めとったり/とついだりすることはない/彼らは天にいる御使いのようなものである」。キリストの説く永遠の生においては、愛するものとは現世的な法や姿形ではむすばれない(頭上の「青空」を満たすのは不定形の歌声です)。夢魔に憑かれながら、この両者を総合せんとする「神秘家の徴」を帯びた「ぼく」が抱く想念は、先行的に、殺害を含んだカニバリズム(肉の悪の徹底による肉の悪からの退き)になる。とくに現世的な意識、婚姻の法を含んだ理性の中枢である「脳」がその対象となります。「マルキオンは死なない//ぼくの脳髄に刺されたストローを吸う/その人」。最終部の、この自己の停止というきわだった倒立像に至るイメージの展開が、すこし断片的で、想念中の「君」と「その人」との同一性とギャップの部分、この世界でのその都度のいちどりがぼやけている感がありました。終結部だけを率直に読むと、これら「ぼく」の想念自体を打ち止めにする圧倒的に物質的な他者としての「その人」を感じるのですが。情愛は世間的に言えば剣呑な想念を生むものでもあり、それをナシにしないのが、あたりまえながら困難な、詩の営為です。イメージの魔に呑まれるのではなく、目醒めてあるためにも。

 

佐々木貴子さんの「浴室」からは、静謐かつ緊張感のある喪の空間が喚起されました。「湯船に/身をあずけるたびに/父の死が/まだここに/浮かんでいることが/分かる」。場所自体が帯びている記憶は、忘却しがちな人間を、死者の内実への、あてどのない想起へと向かわせます。「ひそかに/家族をもつことを/怖れてはいなかっただろうか」。問いかけへの返答にかわるのは、すこしオブセッショナルな視線のイメージです。「ぽたぽたと/音をたてる滴の中に/眼差しが潜む//髪を洗う/わたしの背後に/父が立つ」。「浴室」は固体液体気体の感じやすいところで、形あるものとないものとの閾がどこかほどけてゆく。生者のまなざしをかいくぐり、視線を与える死者、しばしばその沈黙の視線は生者に、否定を示しているように感じられます。「父の最期を看取った/この浴室は/一日の終わりに/わたしにも死を促しているようで/落ち着かない」。誰かに見られている、という感覚は、人間を規範の遵守にむかわせるものですが、ここでの死者の視線は、むしろ、生者が属している規範、生き延びることそのものを否定しているかもしれない。後半部、出そろっていることがらの観念的な言い換えで進行している感がわずかにあります。ごくシンプルなことなのですが、「わたし」と生前の父との微妙な関係が背景にあってこその詩と思います。いわゆる「事実」であるなしに関わらず、そこが瞬間でも言葉にならないと、この「父」という語が、「母」や「祖父」と交換可能になってしまうおそれがあります。それもまた透明な死者、声や視線として訪れるものの性質なのですが、この「父」の特性は、「わたし」のなかで、そこまでほどけてしまっていないと感じるのです。「湿度のある/思い出は/いつ/乾く」。この詠嘆が切実なものであればこそ。

 

アゴウトモコさんの「ねじのはずれた夜は」は、アクロバティックなリフレインが特徴的な作品。

 

「ねじが1つはずれた夜は

           あえてはずした ままにしておく

 ねじが1つはずれた夜は

           あえてぎこちな さに身をゆだねる

 ねじが1つはずれた夜は

           あえてキイキイ 月にうなる」

 

冒頭からくるくると回転していますね。読んでいくと視線の動きが螺旋になります。うっかりすると目眩をおこして倒れてしまうのだけれど、中心軸は揺るがず倒れない。アゴウさんのそれはバランス感覚なのかもしれません。わけがわからないところに振れてゆきたい思いがありつつ、「あえて」という主観的な意志の投げ縄をひっかけておく。「わたし」を棄てる身ぶりと、セルフコントロールとの矛盾が力となって、奇妙な独楽のような夜を生んでゆきます。「そんなふうに夜はめぐる/そしてわたしは一晩中/空まわったまま夜をすごす/途方にくれて夜をすごす」。「夜はめぐる」、「空まわ」る。これも反復の感覚ですね。どこかヘンなところに突っ切りたいところと、まるでヘンになってしまってはいけないという思いなしと。実はこれ、詩を書いてゆくうえで大事なことにつながっています。なにかに酔っぱらってしまったときのほうが、既存の観念にとらわれず物に体当たりしてゆけるかもしれない。しかしまた、言葉の世界にもどってそれを精密に書かなければ、伝達できない。「キイキイ月にうなる」、そのときの言葉を、なるだけ単純な観念にしてしまわないように、人の言葉に翻訳してみられてください。

 

その他、森田直さんの「親知らず」は、抜歯のあと、「僕のもの」ではなくなった奥歯との奇妙な交流が描かれていました。「見れば見るほど見覚えがない/口に含んでも、味がしない/一体君は、僕の何だろう/匂いをかいだら/知らない思い出が/よみがえってきた」。この自分から排斥された物、自明にしていたことがらが異物化するときの経験への執着は、森田さんの特性ですね。その「知らない」物、まだ名前のないヘンな体験を、名づけるように、もう一息言葉にしてゆく、そこに次の展開があるように思います。徳田有紀さんの「線を引く」、「マットな色合いの液体に戻って/思考も願望も孤独も、何もかも/補い合うなんて/そんなのごめんだね」。全体の整合性の幻想を追わない、そこを言い切っていく詩語の立て方、いっさい弛みのない語調に惹かれます。語の抽象度が高くて、概念相互の連関がコンパクトな詩の内部であいまいになっている感があります。ある程度まで意味で語っていく詩ですから、すこし惜しい。「ずっと解釈を探している/落ちてくる言葉、それ以上に/そこから生まれる波紋の/形の意味を考えている」。この微細な水ぎわの凝視の先に生じる、新たな言葉の獲得をお待ちしてます。最後に、桐原景さんの「草花」から。「ガイドブック片手に/街をさ迷う旅行者のように//見ることを忘れたぼくたちは/学び方すら忘れてしまったようだ//なんだか湿っている/こころも木々も草花も」。終止の二行でつかみ取った感触には、心と事物と言葉との関係が生じています。おそらく、そこには詩を書いていくこと特有の世界からの「学び方」があるのだと思います。どうかその地点から、書き始められてください。