◯次回投稿規定
・宛先 mpwebclass@gmail.com(テキストファイルまたはワードの形式でお送りください。)
・締切り 二月二八日
・投稿作品数 一人一篇
・商業誌からの依頼原稿(詩関連)のご執筆経験のない方に限ります。
・未発表作品に限ります。
今回の応募総数は十五編。まずは入選作品から。
谷口鳥子「足ゆびと月のアイダ」。私の記憶が正しければ、廿楽順治などが参加している同人誌に書いている人だ。丁寧にこの作者の仕事を追いかけているわけではないが、おそらく行を下揃えに近い形にするというレイアウトも、廿楽の近作やあるいは彼が範としている会田綱雄の晩年の作に影響を受けたものなのかもしれない(違っていたらごめんなさい)。しかしながら、このスタイルが今回の詩にもたらしている効果は、彼らの作品とは大きく異なっている。言葉が重力によって地上に引き寄せられているかのような〈低み〉への志向ではなく、地面から天へひゅるりとリボンが飛び出しているかのような軽やかさがある。冒頭の二行で直喩をいきなりぶつけてくるのは大胆だ。しかし、上手く決まっているのは直喩に思いを込め過ぎていないからであろう。「足ゆび」のありさまをただ、写生しているだけ。比較対象として「だんご虫」を持ちだしてきたのも、形状の類似以上の意味はない。言葉を物質的に扱うという態度が徹底されている。二連目の「吸い込んで」という動作について、一体何を吸い込んだのか、なぜそんなことをしたのか、一切の説明が省かれているのも、そのような態度に由来する必然であろう。「うごけ」の繰り返しも命令形でありながら、主観を遠く離れた冷ややかさを放っている。このような書き方を突き詰めていくと三連目の「足ゆび」がはじめから「線」(おそらく輪郭線のことであろう)に囲まれているのではなく、「線」が後天的に「足ゆび」という物体に「おしこめられている」のだという逆説が生まれる。シュルレアリスムが対象をひたすら冷徹に見つめることを肝としているのはよく知られた話だが、その実践に接近しているのかもしれない。「線」がやがて「詩」になって「月」へと向かう展開も、余計な熱や湿っぽさがなくていい。最終連は意味的なつながりが私には理解しにくかったが、しかしものを見つめた結果であることは充分に伝わってくる。入選作に即決した。この〈軽み〉の汎用性をどこまで広げていけるのか、あるいはどこで躓いてしまうのか、もっと読みたい。
群昌美「空間識」。前回この作者には、もっと言葉やイメージを削ることをリクエストした。果たしてそれを意識したのかどうかはわからないが、一行あたりにかかっている負荷が前回と比較して、軽くなったような気がする。また、そのことによってこの作者の資質の輪郭がくっきりと見えるようになったのではないだろうか。「男の子」や「パン」や「善人たち」、あるいはそれらを第三者的に眺める語り手の視点がダイナミックに絡み合うことを通じて、「空間」そのものも大きな歪みと化していく――「袋」、「大きな物質の狭間」、「電車」、「旅客機」、「虫かご」といった風に、次々と「空間」が分裂し捩れていく様態をつぶさに描写することに、言葉は費やされる。正直、今回も読んでいて疲れた。しかし、疲労に見合っただけのスケールの旅をさせてくれる作品ではある。その点を買って、入選にした。「男の子」の成長(?)が、この作品全体を貫く一本の糸になっているようだが、これが本当に必要だったのか不要なのか、私にも判断が難しい。このような〈軸〉が設定されていることによって読み易くなっているのは確かだ。だが、その一方で、実はかなり単純なイニシエーションの過程をいたずらに難解に描写しただけのものなのではないかという疑念も起こってしまう。むしろ、作者の立場においてはイニシエーションの方こそが、「空間」の分裂よりも大事なテーマだったのかも知れないが――。
さて、今回の参考作品はなしということにした。本当は一編選んでいたのだが、二重投稿の疑いが出てきたため、掲載を見送ることとした。年末は特別な編集体制を組むところがあるという事情などから、落選したのと勘違いして改めてこちらに送り直したという可能性が高い。落選したと思われる作品を投稿すること自体は問題ないが、本当に落選したのかどうかきちんと確認してから送ることを心がけてほしい。自分の作品の管理をしっかりとしておくことも、執筆活動の一部である。
今回は掲載に至らなかったものの印象に残った作品を以下に。
水城歩「本の蝶」は「本」と語り手自身の身体の重ね合わせが魅力的な一篇。「付箋」を貼る作業の歓びが、詩の律にうまく定着していると思う。「痺れる一行」や「羽ばたく一行」(これらの表現は通俗的過ぎるので再考を求めたい)の発見がきっかけであるということは明示されているものの、書き手の関心は書物におさめられたテクストを読むことよりも、「付箋」を貼る作業そのものに傾いているようだ。この思考を突き詰めていけば、〈テクストなしでも成立してしまう書物〉というラディカルな概念へ辿りつくのではないか。また、そこまで詩が届いていれば、迷わず入選にしていた。
逸可実和子「緑茶」は前回の、〈他者の登場する作品が読みたい〉というリクエストに応えてくれた作品のようだ。老境にさしかかった母親との交流を描いている。最終部の語り手から「母」への「明日、東京にかえるね」という呼びかけ、「母」の老いを目のあたりにしつつも自分自身の人生も歩いていかねばならない語り手の意志を反映していて味わい深いが、何かもう一手間加えてほしいような気も。
どしゃぶり「恐竜」。野球のマウンドに立つ「恐竜」のようなクラスメイトの少年と、「外野席」で便意にじっと耐えて「俺だけが人間で」あることを認識する語り手自身という対比構造の発見で詩を終わらせてしまっている。だが、この先を書いたとき、「恐竜」のスケッチに費やされた筆力がどのように生かされるのだろうか?
岸本琴音「風の産声」。日没から次の夜明けまでを細やかな言葉遣いで描いた叙景詩だ。「雲間から田へ射す光」とあるので農村の様子だろうか。これは私自身が農村の育ちだからそう感じてしまうのかも知れないが、美しい風景の裏地にうごめくものをもっと匂わせてほしい。色鮮やかな変幻を見せる空の下にも、様々な人々が暮らしている。またその人々をゆるやかに、あるいは厳しく縛り続けているものがある。その点を視野に入れたとき、この詩に描かれた風景はどのように変わるだろう、見てみたい。もちろん、人々や社会の抱えている問題をそのままの形で書けという意味ではない。
草間美緒「収穫祭」。抽象性の高い表現から出発して徐々に具象へ収斂するという難しいチャレンジをしている。そして、冒頭から三連目の半ばあたりまでの抽象の部分(作者自身にそのような意識はなかったのかもしれないが)がうまくいっていない。読み手が〈果たして自分が今読んでいるものは抽象なのだろうか〉という疑いを抱いてしまいかねないような、そんなあやうい屈折がもっとほしい。「鹿」という具象の登場する箇所などはため息が出るほど見事なのだが――。