詩情と空間<16>

 

 

47:些細な視点/引っ越しの方法論

個人的なことではあるが、今年の3月に資料で溢れかえった仕事場の引っ越しをした時、専門業者の手を入れるにしろ、荷造りには二つの方法しかないことを学んだ。

(a)必要なものだけを拾い出して、梱包する。それを運び出した後、部屋に残されたものを丸ごと捨ててもらう。

(b)不要なものを拾い出し、ゴミに出す。残りは紙一枚にいたるまで梱包してもらい、引っ越し先に運んでもらう。

すなわち、不要なものと必要なものを仕分ける作業は、結局のところ、本人以外には出来ない(本人がやらざるをえない)が、それ以外であったら、他人が代行することができる、ということである。これは、一見些細な事例に見えるかもしれないが、敷衍すると、<モノ>の処分を巡る作業には二つの段階があり、

(1)必要なものと不要なものを仕分けること。

(2)不要なものを処分すること。

ということになる。これをやや社会的な視点から換言すると、(1)には市民の合意を得るための民主的な手続きが必要で、(2)は専門家の手に委ねることができる、ということになる。秩序の維持には、絶えずこの二つの局面と向き合う必要があり、このことを巡って人類の歴史は大きい労力を費やして来た、とも言え、時に深い混迷に陥ることもあった。

また、このことを時間軸に即して言い換えると、

(イ)必要なものと不要なものとは、その都度、仕分けられる。その度に、不要なものは処分される。

(ロ)一方、必要なものは保存されるが、特に重要性の高いものは、しかるべき場所(博物館や図書館)において保存される。

ということになる。ここでは、すなわち、不要なものの処分方法と、必要なものの保管方法が、同時に問題とされる。処分については、有害なものであれば、完全に消滅させなければならない場合もあるが、それはことのほか難しい。また、保存するべきものは増えることはあっても減ることはないので、その保管(場所と維持コスト)が問題となる。

建築的な事例で言うと、処分については、例えば、トイレ(衛生機器)の進歩は目覚ましい。都市の歴史では、排泄物の処理が極めて問題であった時代が長くある。日本でも、ご不浄と言われ、そもそも住宅の居住空間から切り離され、庭に置かれていた空間が、今や、住宅の中に取り込まれ、不浄なものではなく清潔で快適なものへと進化している。衛生器具メーカーとして有名なTOTOとINAXは、いずれもそもそも陶磁器を造っていた窯業に端を発しており、製作する<器>の重点が<食器>から<便器>へと移行したことも示唆的である。排泄は最早、演劇的な振る舞いとして演出されており、我々は、美しく光り輝いている艶やかな器に向かって、軽やかに用を足す。

また、保管については、図書館や美術館の収蔵物は増える一方であり、これらの施設は絶えず増築がなされる。街が、さらには、地球が、やがて保管場所に覆い尽くされるのではないか、と戦くほどに。

 

 

 

 

 

 

48:廃棄する技術

技術進歩の大半は、<今までになく、かつ、より便利で、潜在的に必要なもの(=道具)>を製作すること、に捧げられており、歴史の進歩とは、そのようなことだった。翻って、必要なものの中に混在してしまった不要なものの仕分け、さらには、不要なものの廃棄の方法について、長い間、人類は意外なほど無頓着であった、と言える。世界は、要らないものを放置するに十分なほど広く感じられ、廃棄するべきものは、そういった<余白>に放置すればよい、と見なされていた。けれども、人類が増えていき、地球上の全ての土地が、誰かしらの所有に帰属するものとして、すっかり分割され尽くした、ということになってくると、物を捨てるにも工夫が必要になってくる。誰かの土地に勝手に不要なものを捨てる、というわけにはいかない。けれども、そのことが社会の問題の中心に据えられるようになったのは、それほど古いことではないだろう。

高度経済成長が公害をもたらしたのは、その廃棄物を処理せず垂れ流したこと、によるのであるが、すなわち、廃棄するべきものを廃棄することの、技術的工夫の必要性を、社会が全く感じていなかった、ということになる。有害物質を浄化してくれるのに十分なほど世界は広いと思われたので、自然環境の治癒力を、誰もが素朴に信じていた訳である。

公害問題は最近ではそれなりに適切に解決されるようになった。とは言え、このことは、現れ方を異にして、我々の社会を取り巻き、脅かし続けている。とりわけエネルギー問題においてそれは顕著であり、例えば、火力発電等によって発生する二酸化炭素と、原子力発電によって発生する核廃棄物(および発生しうる放射能)の、いずれをも適切に処理する方法を我々は持ち得ていないにも関わらず、エネルギーを大量に消費し続けている。すなわち、廃棄するべきものを適切に処理する方法が見付からないとしても、我々の社会は稼働を停止させることはできないので、地球温暖化の原因とされる(異説もある)二酸化炭素であるか、生物に深刻な損傷をもたらす放射能や核廃棄物であるのか、そのどちらの廃棄物を生産し続けることが、よりマシであるのか、という選択を絶えず迫られているということになる。

これらのこと(廃棄処分の適切な方法の考案)を不謹慎にも、物や道具、物質に限定することなく、人間について当て嵌めるとどうだろうか?   立場は分かれるが、我々の日本の社会は、合法的に、人間の生命を廃棄する方法(この言葉には注意を要するが)を複数持っている。一つは、死刑制度である。裁判員裁判が制度化されたので、市民もある事案の被告に対して、死刑を宣告することに加わることになった。ある人をその社会から(廃棄する/消去する)ことを、市民の総意のかたちをとって選択することが可能であり、市民の誰もがその過程に参加しうることになる。(ここに、尊厳死や、出生前診断と中絶も加えられるかも知れない。)

また、生命ではなく人間の身体(=遺体、物質としての人間)の廃棄方法のことは、埋葬と呼ばれる。埋葬方法は、個人の宗教的な感覚にとっても、人間社会のあり方にとっても、都市工学にとっても、重要な問題であり続けた。(例えば、ナポレオンがイタリアのベネチアを支配下に治めた時に行ったことの一つは、あちこちの島々に散在していた墓地を、一つの小さな島に集約したことと言われている。)死者の姿をそのまま保存したい、と思ったとしても、日本では、火葬することで器に納まるように、嵩張ることのない遺骨に適切に変換することが制度化・習慣化されているが、それは身体の処理方法と言えるだろう。宗教観とあいまって、社会的なルールとして定着している。秩序とは、何かを生産することに加えて、いや、それ以上に、何かを効率的(物質的効率性とともに精神的効率性をも含意する)に消去することによって、維持される。

さらに、これは、現段階では妄想なのだけれど、やがて、人類は、再生医療をはじめとする医学の進歩によって、寿命を、現在とは比べ物にならないくらい、長くすることができるようになると思う。具合の悪い臓器を適宜再生させながら、数百年生きられるようになるかも知れず、そういった時代の到来は、それほど遠いものではないだろう。その時に、我々の社会は、その構成員を適切に消去する方法を、真剣に考えなければならない段階に到ることになる。寿命をある段階で断ち切って、合理的に人口を減らすためのルールを、真面目に考えることになるだろう。人間が死ぬ時間は、生物的な与条件あるいは天命ではなくなり、本人が、あるいは周囲や社会が、意志をもって選択するべき事案となる。そうしなければ何百年でも生きられるようになり、仕事だけではなくて、人生そのものに定年制が敷かれるかも知れない(例えば、300歳定年制のように)。その時に、ヒューマニズムは、必然的に残酷な変質を来すことになる。

 

 

 

 

 

49:アウシュビッツをめぐって

そう考えてみると、アウシュビッツは、例外的な狂気として目を背けるべきものではなくなる可能性がある。

前回、ナチスの件に触れたが、アウシュビッツにおいて、ナチスのテクノロジーが合理性の極点を示している、と思われるのは、その人道性の著しい欠如を結果したにも関わらず、(必要と見なされるもの)と(不要と見なされるもの)を仕分ける方法、さらには、(不要と見なされたもの)を廃棄する方法を、一つの秩序の中で徹底的に突き詰めようとした(系の中に組み込もうとした)からである。(そもそも、人道性とは何か? なぜ、人は人道的でなければならないのか、に論理的に答えることは難しい。このことは、継続的に考えて行きたい。)不要なものへの視線が人間に向けられたことにおぞましさがあるが、この<仕分け>と<廃棄>のテクノロジーを、様々な次元で真剣に考えない限り、その秩序はいずれにせよ、永続化しない(持続可能性を持たない)。極めて歪んだかたちではあったが、そのことを、いち早く意識化していた、と考えられる。

すなわち、とても生真面目な気質を持ったある民族が、永続的な社会を実現するために、その合理的精神を最大限発揮して、社会の構成員の数や種類を抑制する方法を考えたのだと、そう言える面もないわけではない。これは、追い詰められ、行き詰まった社会がいかにも考えそうなことであるし、社会が行き詰まれば行き詰まる程、その衝動を抑えることは困難になる。

というのは、社会全体としては狂気の沙汰であったにしても、実際にその中で生活を送り、反復的に仕事をこなしていた係員の人たちにとっては、自分たちが属する社会を合理的に稼働させるための、日常的な行為だったとすら言える。一見、狂気と思われる行動を、彼の属する社会は、その維持に必要な仕事として、その内側に組み込んでいたわけである。

アウシュビッツは、<死の工場>とも言われているが、そこで繰り広げられていた行為は、例えばテロリズムや戦場の光景とは、暴力の性質が大きく異なっている。怒りに任せて相手を痛めつけるのではなくて、静かに、ベルトコンベアをゆっくりと稼働させるように、死を定常的に生産し続けた。鉄道網を駆使して、ヨーロッパに散らばり都市生活の中に溶け込んでいたユダヤ人を隅々から集めて、東の端まで送り届ける。そして、その先にある強制収容所も、同じ大きさの棟が、向きも間隔も揃えられて整然と並んでいる、という、近代合理主義に裏付けられたモダニズム建築の団地の配置のように、意志的な均質性を保った<合理的>なものだった。個々の微細な場面においては、個人的な憎悪があったかも知れないが、巨視的には、テロリズムのような正義感ですらなく、社会を合理的に進めるための方法として(誤って信じられた)、工程の一つを稼働させたにすぎないように見える。

では、何が言いたいのか? 漠然と、<余白>のことである、と思う。捨てたいものを、人目を気にせず、こっそり捨てることのできる<強靭な余白>が、必要ではないだろうか?

次回は、一冊のテキストを取り上げたい。V.E.フランクルの『夜と霧』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

中世の排便のようす(「餓鬼草紙」〈12世紀〉)

ナポレオンが墓地を集約したサン・ミケーレ島

アウシュビッツ強制収容所

浅野言朗(あさのことあき) 1972年生まれ。詩人、建築家。詩集『26=64/窓の分割』(ミッドナイト・プレス)、

森の階調」( 浅野言朗建築設計事務所 、2013年日本建築学会作品選集新人賞)

帆/立方体/傾いた茶室」(2015年神戸ビエンナーレ・奨励賞)。

 

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