詩あるいは個人・自由・合理性
井上輝夫詩集『青い水の哀歌』をめぐって
阿部裕一
個人の自由の尊重とは、言わずもがな他者であるところの個人の自由を尊重することであろう。人間は自ら進んで己の自由を尊重することは十全には不可能で、もしそのようなことが仮初めにも成されるとすれば、それは自由の尊重ではなく、自閉せるエゴイズムの炸裂であろう。
こんなことを書き始めたのは、井上輝夫の詩集『青い水の哀歌』を読んで深い感動を覚え、今まで曖昧にしてきた個人・自由・合理性について詩集に収められた作品を導き手として、私なりに考えを整理することを促されていると感じたからである。
井上はこの詩集において、人間・動物・植物のみならず同時代の政治・経済、まさしく地球上の森羅万象の発する響きや色彩に、耳を澄まし、瞳を凝らし、それらすべての自由を愛し慈しもうと、絶対他力という観念が空疎になるほどに己を透徹させ身を挺していると感じられる。
この地球の同時代にグローバリゼーションの深化とともに現れた貧困といいテロといい、つまりは凶暴性を帯びたあらゆる不幸を逆転しようと、まさしく己をそれら不幸の身代わりとするほどに切なる願いを込めて唄い尽くしているのである。
たとえてみれば、Simon&Gurfunkleの佳曲Bridge Over Torubled Waterの歌詞のごとく、あらゆる森羅万象に友愛をもって呼びかけ、井上はI’ll lay me downと祈るように唄っているのであるが、驚くべきことは、この友愛の対象が先にも記したとおり人間・動物・植物のみならず同時代の政治経済にもおよんでいる視野の広さ強靭さであろう。
私は常々政治経済こそ、『マラケシュの声』におけるエリアス・カネッテイのごとき友愛に満ちた語り口で論じられるべきと考えているが、井上は詩においてそれを成し遂げるという奇跡をボードレールの散文詩に登場する天才道化師ファルシファルのように演じて見せたのだともいえる。
さて、この詩集におけるエクリチュールは蒲原有明の「茉莉花」や佐藤春夫の「ためいき」を思わせる優美さを感じさせるが、過去、日本の近現代詩に多くみられた雅語の多用によって空疎な工芸品と化した諸作とは大きな隔たりがあり、井上が詩とは己の言語能力を他者に見せつけるパフォーマンスではなく、傷ついた他者の魂への持て成しであり饗応であることを知りぬいていることを証している。
日本の近現代詩は和歌・俳句などの伝統文芸とは異なり、明治の富国強兵の産業化と歩調を合わせるがごとくに、無理無体に翻訳によってねつ造され、百年を超える歳月を閲しているとはいえ、同時代の人々からはほとんど顧みられることのないジャンルと化していることは、詩こそは無用の長物であり、古来、詩を書くな!耕せ!なる箴言もあるではないかとばかりに、根強い不信を生んでいる。
井上は「あとがき」でそのことにも触れ、日本語による詩の危機を深く認識している。私は冒頭に個人の自由の尊重とは、他者であるところの個人の自由の尊重であると書いたが、その困難な自由の尊重は何によって促され勇気づけられて実行されるのだろうかと日々疑念にかられている。
需要・欲求・欲望、それらを満たすための経済成長をお題目のように強制するグローバルな消費社会は使用交換の価値を潤滑に流通させるためのツールであったはずの貨幣そのものさえも商品と化して増殖・拡大をつづけ、物質のみならず貨幣の償却すら必要とする野蛮で凶暴な社会に成り果ててしまったのでであるともいえる。
われわれはそのような社会で生き残るためには、個人の自由の尊重など可能なのだろうか、われわれはむしろ自閉せるエゴイストとして常に他者を抹殺する衝動に突き動かされているのではないか。
少し角度を変えて語れば、われわれが尊重すべき他者であるところの自由の合理性は何によって担保されているのかという問いである。他者であるところの自由と自閉せる他者のエゴイズムに対する仕分けは、いかなる合理性によって担保されるのかということでもある。
現代の経済成長至上主義の社会では、多くの人々は合理性は科学技術や経済学の中にしかないと思い込んでいるふしがある。だが、科学技術や経済学における合理性は、時間空間を特定して得られたデーターを蓄積することによって齎される合理性であって、生まれる場所も時間も自ら選択することは不可能な人間にとっては、まことに頼りなくも不都合な合理性なのである。つまりは、科学技術や経済学の中にある合理性は近似的な合理性であり、自由とエゴイズムを十全に仕分けすることは不可能であると私は断言する。
なぜ、そのように断言するのかと言えば、科学技術や経済学はどんなに利他を願っても有償性を逃れることはできないからである。そこに詩が生きのびつづける微かな間隙がある。詩だけに許されている時間空間を超越した合理性は無償性を帯びることによって明晰であり、詩作こそが絶対他力を空疎なものとするほどに他者であるところの自由を尊重する行為、ヘルダーリンの言葉を借りれば人間の行為のなかで一番罪を免れている行為なのである。
夏の夕べ
かなかなかな
かな
かわいたひびきは
唐松林をつらぬき
これをさかいに
白くうかぶ月
いまや裏山の肩には
死者のなつかしい瞳
一番星 ともる
黄泉の夕暮れではない
時をこえて語りあう
至福の時だ
「会いたかった」
モーリス・ブランショは「優れた書物は中心を持っている」と喝破していたが井上の詩集『青い水の哀歌』の中心はこの作品の最終行「会いたかった」である。
井上はその奉職した大学の最終講義において、フランクルの強制収容所のユダヤ人を語ったエッセイを引用し、死を運命づけられた強制収容所の囚人ですら「世界は限りなく美しい」とひとりごちたのだと語っているが、この「会いたかった」なる詩句は、現在の地球がいかなる暴力によって不幸の相貌を帯びようとも、やはり「会いたかった」と叫ばざるを得ない美しさがそこにあるのだという強靭なる肯定である。
しかしながら、この悲痛ともいえる「会いたかった」という人間的郷愁を蔑み、ひととひとが真の出会いを成さずとも、速度と効率の名のもとに地球上のすべての森羅万象を、その政治経済すらも「商品」と化して流通させようとするのが一九七〇年代の新自由主義的な経済外交政策に端を発する現在のグローバリゼーションの大きな陰の部分であることを誰しも否定できないであろう。つまりは、ひととひととの真の出会いを妨げる障害があらゆる場所に仕掛けられている産業社会で生きることを、われわれは強いられているということでもある。
そして、さらにはグローバリゼーションには、その驚くべき巨大さを持つに至ったマスコミュニケーションの繁栄とはうらはらに、すべての母国語を危機に陥れる公用語なる妖怪を速度と効率の名のもとに魑魅魍魎のごとく跋扈させ、大地に結び付こうとする人間の魂を破壊し尽くそうとする恐るべきマイナス面があることからも目を背けるべきではない。
がしかし、アマルテイア・センが主張して止まないようにグローバリゼーションにマイナス面があるのなら、そのマイナス面の克服に力をそそぐことに怠慢な態度を取ることもまた許されることではない。地球上の飢えや貧困、地域間格差はグローバリゼーションを否定すれば放置されることになるのである。
近代から現代へかけての国民国家単位の協調によるバランスオブパワーにわれわれはもう戻ることはできない。国家や大企業すなわち集団による交渉・通商ではなく徹底した個人の自由の尊重、それは言わずもがな他者としての個人の自由の尊重であるが、そのことを押し進めることが軍産複合体による「成長」と「消費」の強制よって汚染されたグローバリゼーションをよりよきものに改変すると私は考える。
さらに、私は、現在日本の文化産業、すなわちマスコミのなかで横行している、翻訳に容易な平明な日本語こそ唾棄すべき忌むべきものとする立場である。
私は翻訳困難な重層的で深い日本語を話し、書き綴っていきたいと、常日頃願っている。そのことが逆に日本語でないさまざまな母国語を尊重することになるのであって、翻訳に容易な平明な日本語を語り、書き綴ろうとすることは日本語を母国語としない地球上のあらゆる他者に対する侮蔑であると断言する。
そして、井上の詩集『青い水の哀歌』を日本語でない外国語に翻訳することはとてもハードルが高い作業となるであろう。
私は井上の詩集『青い水の哀歌』を読むことによって、つまりは、その表層性を全否定するがごとき逆説的にも強靭な「友愛」の深さ拡がりによって、物質的繁栄に個人・自由・合理性を無理無体に見ようとする「合理的な愚か者」とは別の、すなわち、無限に他者を承認しようとする「正義」が散りばめられた個人・自由・合理性を思考するホモ・アミックスの美しい姿を久しぶりに確認することができたのである。
阿部裕一(あべゆういち)一九五八年生まれ。詩集に、『半月湖』(一九八九年)、『舟の想いで』(二〇〇一年)。