光よりもはげしく

  久谷雉詩集『影法師』について

                          小川三郎

 

 

 

 

実にゆっくりと久谷雉は自分のなかで詩を、それが完全な形になるまで十分に熟成させ、そうしてからようやく取り出し机に置いて空気にさらすのだろうと思う。この詩集に収められている作品群は、とにかく余計なものはすべてそぎ落とされ、詩以外のものが一片も混ざりこんでいない。そのすべては、指で押せばずぶずぶとどこまでも沈み込んでいく深い奥底を持っている。詩の言葉は、少し恐ろしいくらいの、底なし沼の感触を持っていなければならない。久谷雉の言葉にはそれがあり、何度読んでも胸に得体の知れないものが食い込んでくる。それ故に、この詩は何を語っている、と読みを限定することは意味のないことだが、私はこの詩集全篇を通して、久谷雉の生と詩の関わり方が表されているように感じられた。詩はそれ自体、なにか逆らうような、自然に対して不自然な、一種の背徳に似た印象を持つものだ。特に社会常識から外れたりせず、おおよそ平凡に生きていたとしても、詩の言葉を紡ぐとそれだけで、木々や空といった自然の成りとは位相を別にしてしまうような気がする。

 

 

天の近所をまはる

 

自転車を漕いで、

蛇苺の繁みを轢いて、

川を渡る大工たちに挨拶をして

 

いくつかの坂と

学校、

そして

いくつかの鏡が

近所と近所をつないでゐる

 

荷台の

木箱からこぼれる

鶏のはらわたの匂ひ、

光よりもはげしく

わたくしの眼玉にやすりをかけやうとする

 

青一色を抱へたまゝ

つながりの外で

天は眠りこけてゐる

 

        (天の近所)

 

 

天の近所とは面白い言い方だ。空は高く見えることもあるが、すぐそこにあるように見えることもある。そんなときは、自分も町も、自分のまわりのものがすべて空、すなわち天の近所にある。自転車を漕いでどこまで行っても天の近所であり、そのことに一種の安心感がある。鶏のはらわたの匂いが、光よりもはげしくわたくしの眼玉にやすりをかけようとするとは、どんな意味あいだろう。鮮明にするとも見えるし、逆に曇らせるようでもでもある。はらわたの匂いは、生々しい生あるいは死の匂いだろうから、それは光よりも暴力的に、光では見えないものを、わたくしに見せようとするのだろう。ここにわたくしの詩の生まれ場所があるようだ。天の近所を散歩していてさえ、詩人は詩人でないことを許されない。

 

 

口のなかにあるものは

いつだってさびしい

 

硬くふくらんだ球根でさへも

 

わたくしの舌の上で花のやうには

咲かないものを、

 

咲かないまゝで

濁つたしずくをちりばめて

あとは衰へにむかつてゆくだけのものを、

 

どちらの岸辺から、流してあげればいゝのか

 

            (咲かない花 冒頭)

 

 

口のなかにあるものとは、詩のことのように思える。するとこの詩は、わたくしの、詩との関係を書いたように見える。比較的久谷雉は寡作な詩人だが、それは無理に力を込めるのではなく、自然と詩が、葉先に膨らむ朝露のしずくのようにゆっくりと膨らむのを待ち、その滴り落ちる瞬間を掬い取って紙上に流し込む、そのような詩作をする詩人だからではないだろうか。するとその詩の生誕は、自らの手だけではなく、なんらかの他者の力と共同で成されるものと感じずにはいられない。しかし詩というつかみどころのない創作を促すものとは一体何なのか。この作品を読むと、それはどうやらいきものの姿をしているようにも感じられる。そんな得体のしれないものを身近に感じつつ、しかし詩人の日常は淡々と過ぎ行き、とりとめもない。

 

 

おぼへてゐるか

家鴨のゐる町で暮らした夏を

 

麦藁帽子のふくらみを

豆の葉の匂ひのする

おまへの汗がやはらかくした夏を

 

おぼへてゐるか

 

シュプレヒコールの始まつた

議事堂前から離れて

おまへは家鴨のゐる町をめざしてゐた

 

電車を二本乗り継いで

一度も暮らしたことのない内陸の町へ

 

         (家鴨の町 冒頭)

 

 

デモらしきものに参加していたおまへは、心変わりでもしたのか、急に群集を離れて田舎の町へと行き、そこで夏を過ごす。育った町ではないけれど、なんだか懐かしいような小さなものを拾い集め、しかしそこでおまへの心に刻まれたのは、ものではなく、家鴨を呼ぼうとして吹いた口笛の音だった。都会に戻っても田舎道を歩いていた家鴨と変わらない人間たちが列をなして歩いている。おまへはどうやらひとを愛することができない人間であり、田舎の町で家鴨に見たものは、自分とは違うものに対するなにかしらの感情だろう。田舎でも都会でも、そういうものたちと共に暮らしていくことは、困難であるようで、意外とそうでない。おまへは人間にうんざりし、人間から逃れたいと思っても、どこまで行こうと逃れられない。うんざりしているのは人間というよりも、みんながみんな同じように動く集団そのものなのかもしれないが、それでもそれを受け入れるくらいには、おまへは無神経になれもできる。

 

 

監視者の心臓のひだをめくつて

淡いひかりが洩れてゐる。

みることそして泳ぐことが

あやふくたすきをつなぎあふ

そんな、

朧なひかりを連れて

監視者は 渦を巻きながら

この浴室へ流れ着いた。

 

           (浴室 冒頭)

 

 

監視者とは、水のことであるように見える。渦を巻きながら、浴室へと流れ着くのである。そしてわたくしをじっと監視している。わたくしは常に監視者の視線を感じていて、それは液体であるが故、自分の身体に流れている血でもある。だから監視者の視線から逃れることは決してできず、不自由な肉体というものを持つこちら側からは、その視線を掴むこともできない。たたきつぶしたいとも思うし、引き裂きたいとも思うのだけれど、その行為はひとに対してしかできないことだ。

『影法師』は小さな詩集である。しかしこのくらいが、詩集全体ときちんと向かい合うには、ちょうどよい大きさなのだと思う。詩集を、ある詩人の詩の集積ではなく、ひとつの作品として「掴む」ことができる大きさなのである。最初から最後まで、すべて詩のみで作られているならばその詩集の形は詩のみで形成される唯一の形となり、他の何物とも比較しようのないものになる。『影法師』は、そういう形をした詩集なのである。

 

 

 

小川三郎(おがわさぶろう)。一九六九年生まれ。詩集に『永遠へと続く午後の直中』(二〇〇五)、『流沙による終身刑』(二〇〇八)、『コールドスリープ』(二〇一〇)、『象とY字路』(二〇一二)、『フィラメント』(二〇一五)。