講師:小林レント(こばやしれんと)1984年生まれ。

<投稿者のみなさまへ>

今回で講師の小林レントさんは終了となります。
次回からは、久谷雉さんによる「詩の教室」をリスタートします。

開講日は10月1日。

投稿規定は右の通りです。

*投稿作品数は1人1篇となりましたので、ご注意ください。

多くの方のご投稿をお待ちしております。



◯投稿規定

・宛先 mpwebclass@gmail.com(テキストファイルまたはワードの形式でお送りください。)

・締切り 八月三十一日

・投稿作品数 一人一篇

詩の教室 第十講  「絶句から発して」

                                  小林レント

 

 

 

おあずかりしていた原稿をふたたび休眠させてしまい、たいへん申し訳なく思います。わたしのような怠惰な人間には、めまぐるしい状況がありました。きのう臆病な賭けのように書き綴ったわずかの言葉も、一夜明けたらでたらめに見えてしまう。ひとつひとつの詩に向かう位置が毎日ずれていて、そのずれごとうまくお伝えできそうな語り方をみつけることができませんでした。

散文や日常会話はいまだに身体と密接に結んでおらず、わたし自身が移行のさなかにあると、ものの述べ方を紛失してしまいます。中学生のころ、うっかりそのほとんどを紛失してしまって、日常会話もままならない状態から書きはじめたのは、詩でした。ひとつの詩を書きはじめるときに目にする白紙は、どこか忘却に似ているかもしれません。あるいは砂漠に。一瞬、なにをすればいいのかわからなくなる。そして、なにをしてもいいということに曝される。窮極的には、「書かない」ということもできる。「書かない」にまさるよろこびをもたらすものを書けるのかどうか、これはたいへん低いハードルらしく思われるのですが、細かな雨をはじいている草木のひかりなんかを見ていると、どうにもわからなくなる。いつもおずおずと、光景に一画を書きそえてみること、いくらかのフレーズとともに、しばらく過ごしてみることからはじめています。

次回からは、すこしく教室のシステムをリニューアルしつつ、久谷雉さんがこの場所で語られます。この教室の読み手をおまかせいただいたときから、自分が長っ尻して語りつづけることよりは、さまざまの読み手に詩が届けられることのほうが大事だ、と考えてきました。さらにその読み手が、自分の好きな詩人であればいいな、というひそかな願いもさいわいなことに叶って、久谷さんに書いていただけることになりました。ぜひ彼の詩集を読んでください。久谷さんとみなさんの間に生じる言葉を、これからたのしみにしています。

詩を、読ませてくださったことに感謝を。なにごとか私信がおありでしたら、これより先は"harappanite@gmail.com"に宛てていただければと思います。

 

 

  *

 

今回は佐藤諒翼さんの、とても短い詩から読みはじめてみようと思います。

 

気球が落ちた日

 

気球が落ちた日

弟は釣れたザリガニをみせて

もっと大きなのもいたんだよ、と

笑った

 

レジャー用の気球がいくつか浮かびあがるところを見たことがありますが、そのカラフルさや、ぶわぶわとひろがってゆく茫洋とした大きさに、なにか言いしれぬ不安を覚えたのを記憶しています。もちろん、わたしの同時代的には知らない冒険の記録や、あるいは戦争の記録が、どこかで混線して、危険のイメージにむすびついてもいるのでしょうが、空への求婚を繰りかえしてきた人類史の夢の奇妙な明るさと、ちいさなゴンドラを吊り下げながら浮上する、地に足のついていない物体のたよりなさとが、対照的なのです。

気球の落下という事件には特定の「日付」があります。飛行船ヒンデンブルグの爆発のような大ニュースにはならずとも、ある町が騒然とした、あの一日、というふうに、近代の共同体の記憶には日付がある。かたやザリガニ釣りの記憶は、それとしての特定の日付をもつ必要はありません。日記帳を読みかえせばべつかもしれませんが、ふだんは漠然と、小さいころの日常の未整理なままのイメージで、頭のなかにしまわれています。

この詩は多くを語りませんが、日付のある共同体の記憶と、ふだんは日付をもたない私的な記憶の、結節点を示しているように感じられました。小川にいた弟はきっと、話者に笑いかけた時点では気球の墜落という事件を知らなかったでしょう。話者自身もそうだったかもしれません。あえていえば瑕疵のない日常のなかに息づいている。ところが、それはいつしか不穏な日付の世界に合流してしまう。むしろその日付の世界の顛末に呼び覚まされて、何気ない幼少時の記憶がいきいきとしたものとして沸き立ってくる。おそらくは、発話の瞬間、つまりいまここには、すでにありえないものとして。

「長い歳月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、 おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したにちがいない」(『百年の孤独』冒頭、G・マルケス)ある百年のクロニクルに入っていくときの、これは切っ先のような表現ですが、わずか四行のこの詩もまた、書かれていない時間の経過を指し示している、またその経過に支えられているように思うのです。気球の墜落という世界の出来事やそこから派生するであろう物語の影が、幼少時のイメージを私的なノスタルジーとしてのみ抱き込むことを許していない。そこにこの詩の厳しさがあります。また、この詩語の短さそのものは、イメージの一面的な物語化に抵抗しながらも、そのフラストレーションの緊張ゆえに、長大な物語をいまにも呼び覚ましてしまいそうです。

佐藤さんの詩の話者の語り口には、多くを説明しすぎないところがあって、この詩はそのもっとも切り詰められた姿と思います。他にお送りいただいた作品「千羽鶴」の、病床から教室に帰ってきた少女の所作、「ひびわれたレザーのリュックサックから/ 端っこの折れた「古典Ⅰ」を取り出しながら/ 彼女は唇をとがらせたままに/それはすごくカラフルだった、といった」という終結部もそうですね。現在時のアタマで一方的に過去を意味づけ修飾するのではなく、慎ましくそのままにしておくこと。そのときにふと、過去のイメージや事物そのものが、とりかえしのつかない逆光のなかで、何ごとかを語りはじめようとするのかもしれません。

 

ここはコンビニ  井上洸太

 

ここは日本のコンビニで

三〇〇〇円と五〇〇〇円と一〇〇〇〇円と二〇〇〇〇円の

アマゾンギフト券がフックに掛かっている

これはなんというのだろうか

奥行きのない 金券の陳列のための什器

絵柄の異なるいくつもの金券、金券

わたしは愛着を覚える

金券たちが存在しない未来へわたしは移動させられていく

 

ここは日本の他のコンビニで

わたしたちふたりは遠い町から車に乗ってきた

制服を着てレジを操作する友だちを見舞う

アイスクリームとジュースと

下着と家具すべり止めシートとアマゾンギフト券をカゴに入れた

わたしたちは友だちの店の前でアイスを食べた

これからまっすぐ町へ帰るのに

別の目的地に向かう途中のような

そういうアイスの食べ方をした

 

ここはわたしが生まれた町のコンビニで

苫小牧から正月に帰ってきた同窓生に偶会した

アマゾンギフト券はカードの硬さに意味がないと言ったら

意味がないだなんて大それたことを店内でよくもとたしなめられた

だからではないが店の前で

近ごろずっ考えていたことや

対にずっと忘れていたことを話した

立ち話が終わらなくて駐車場の隅に場所を移したら

暗くて互いの顔がよく見えなくなったがそれでもよかった

ここはむかしエーエムピーエムだった

その前はくらしハウスだった

それより前のことはふたりとも知らなかった

 

井上洸太さんの「ここはコンビニ」は、逆にほとんど「いまここ」にあるものを綴っています。この作品、一見するとほとんど素っ気ない書き方なのですが、ただ漫然と素っ気ないのではなくて、その素っ気なさとモティーフがどうにも切り分けることができないのではないか、これをすごくカッコよく書くことは、いま言い表さんとしていることがらや生活を裏切ることになるのではないか、そんな抑制、息の詰まり方を感じます。貼るのに失敗してぐちゃぐちゃになってしまったガムテープのようなありきたりを、華やかに書くのも詩の方法なのですが、あらかじめ「奥行きのない」もの、あるいはそこに生きることを書くときに、無理くり奥行きを持たせるとするならば、要らない物まで買わせる式のコピーライティングになってしまいかねない。

現代生活の「奥行きのなさ」そのものに飽いて、ヒトは懊悩するのだろうか、と考えてみると、かならずしもそんなことはないのではないかと思います。未だ飽かず「奥行きのない」どんづまりまでも立体視させようとする麗句のほうにむしろ飽き、ないものに焦点を合わせることに疲弊するということもありえるのではないか。世界はいつだって飽く間もないほど斬新ですから。たとえば。

「絵柄の異なるいくつもの金券、金券/わたしは愛着を覚える/金券たちが存在しない未来へわたしは移動させられていく」。三連つづけて、コンビニに吊られている「アマゾンギフト券」が登場します。これが詩語になったのは、どうでしょうかもしかするとはじめてかもしれません。はじめてかもしれないくらいなのに、すでにそれは愛着の対象となっていて、しかも、もうすぐ存在しないものになることが予知されています。ギフト券、もはやメールに貼られてきますものね。でも、「硬さに意味がない」ものの正体というのは、やっぱりこの速度の中ではみきわめがたいのかもしれません。アマゾンは金券を売れば収益になる。利用者も増える。でもアマゾンはその金券と交換される物質的な商品を生産してはいません。「コンビニエンス」そのものを売っているわけです。かの企業の名の由来は地球最大流域面積をもつアマゾン川で、実際的に流通最大手になったわけですが、水流の物質性が、人為の計画性に置き換わっている。「コンビニエンス」とは、自然を含んだ世界経験のしちめんどうくささや危険のおおかたを他人や機械のカラダにあずけるということでしょう。では、そのコンビニを求める消費者に、なにも経験がないのかと言えば、そうでもないかもしれない。そうでもないかもしれないのに、予めそこには経験など生じようがないと決めつけても仕方がない。むしろいかなる手だてで、かつて経験とは呼ばれなかったものを経験化するかが問題です。

ここでは「苫小牧から正月に帰ってきた同窓生」という具体は、その固有性がみちびきだす帰結を持ちません。「宇都宮からお盆に帰ってきた囲碁部の先輩」であっても、まったく変わらないのです。「くらしハウス」と「エーエムピーエム」が入れ替わっても大差ないのと同様です。「近ごろずっと考えていたこと」や「ずっと忘れていたこと」もあるのだけれど、その内容は語られません。ただそうした間柄や、語り方の枠組みだけがあります。すばらしいのは「だからではないが」で、むすびつきやすそうな出来事と出来事を因果的に接続するよりは、わざわざ切断しています(我思う、だからではないが、我在り)。「だから」という言葉さえ使っていれば必然性の装いができる。相手を強引に説得したい人ほど無駄な「だから」を呪言のごとく連呼し、自己のツギハギだらけの論脈を守ろうとしますが、「だからではない」のこの非力さには、どこかそのような言葉遣い、場当たり的にきれいに物語られたり、規定されることへの抵抗がある。

先に、この詩の一見したところの素っ気なさということについて書きましたが、どうにも味気ないような生活においても、そこに刻まれているリズムがあります。そのリズム自体の、一聴したところの凡庸さという特性を覆い隠すならば、それこそ詐術となるでしょう。そうではなしに最終連、「立ち話が終わらなくて駐車場の隅に場所を移したら/暗くて互いの顔がよく見えなくなったがそれでもよかった/ここはむかしエーエムピーエムだった/その前はくらしハウスだった/それより前のことはふたりとも知らなかった」とむしろ凡庸さが、無内容であることが、静かに猛り狂っている。「ここ」のほか、あるいは「いま」のほかもはやないのだという断絶に立ってようよう、質のなさの質、顔のなさの顔、噛み疲れたガムの、フレーバーに隠されていた不気味な「硬さ」が露出するように思います。それより以前を知らぬほどの常態を、異常に持ち来らすひとつの方途をここに見ます。

 

 歳月抄  水木由夫

 

 豆を煮ながら考える

 人皆にその場所があるというのは本当だろうか

 例えばこの暗闇に流れ続けるラジオの歌手は

 払暁の演歌のこぶしを本当に信じているのだろうか

 未明の炎はさして潔くもない

 この場所に座り続けて知ったのはそんなことだけだが

 深夜の早口DJの口腔に張り付いた疲労のように

 煤けた釜を舐める火の舌の倦怠と

 豆のエグミが鼻腔の奥に張り付いて消えないまま

 初老も過ぎただけの男の恐怖と

 長すぎる詩を読まされるような

 夜明けまでの屈託

 さりとて東雲の白々と白茶けた白想

 暁闇に立小便をしにくるタクシー運転手との確執

 朝五時になると鳩に餌をまきにくる老人との争闘

 そんなものを生きた証とでもいうのか

 そんなものと付き合ってのこの場所を

 そんなものとして私有するとは

 いかなる解説に耐えうることか

 そんなものを一緒くたにして

 ひたすらこねくりまわしただけのものを

 歳月とでも呼ぶというなら

 せめて

 我を鼓舞せよ

 火を見る者で

 死にたいだけなのだから。

 

水木由夫さんの「歳月抄」は、「人皆にその場所があるというのは本当だろうか」という問いにおいて、井上さんの詩とも遠く呼応しているように思いました。だしぬけな余談なのですが、わたしは書き物や思考が行き詰まると、鍋に鶏ガラだのトビウオの焼き干しだのをぶちこんで煮はじめる癖があります。これは一発勝負で集中するチャーハンなんかでは駄目です。スープづくりには時間がかかる。つっつきすぎたら濁るけれど、ほったらかしでも台無しになる。考えごとでもしないと間がもたないようでいて、徹底したそれはできない。この散漫さを、なにか体のほうから求めてしまう。村上龍の小説に、水を火にかけて蒸発しきるまで見つめる人物が出てきた記憶がありますが、その怜悧さや抽象とは、むしろ逆を欲することがあります。豆はどうでしょうか。鍋底でふつふつと同形物が群をなし揺れている。スープや蒸発する水より生活の実質があるような気がしますが、そのぶんふと、「いまなしていること」の意味の束がほどけてしまう瞬間が訪れるようにも思います。しかも未明とあらばなおさら。

場所についても考えます。たとえば以前から耳につく「誰にでも居場所のある社会を」というスローガンは、社会から疎外されることで苦しんである人間のいる以上、政治的にはまっとうに響いてゆくのだけれど、どうもそれだけではすまないのではないか。アドルノのように「社会全体が不正であるとき」の可能性を考えてもよいかもしれませんし、「いない」「逃げさる」ということの実際的な困難に思いをめぐらせてもよいかもしれません。「暁闇に立小便をしにくるタクシー運転手との確執/朝五時になると鳩に餌をまきにくる老人との争闘」の起こる現場は、かならずしも望ましい場所ではないにせよ、放棄することも難儀なもので、ともかくその位置を、「このわたし」が占めてしまっている。「私有」しているらしい。買い物のルートに運ばれた身のその位置ひとつで、通り魔に遭うこともある。加害者が「だれでもよかった」なんて供述しても、刺されたのは「このわたし」にほかならない。とするならば、カフカやカミュの近代は、それが自明にすぎることとされているだけで、ちっとも終わっていないのです。終わらない、ということのめんどうくささと失望の重荷を、ともかくそれとして担いはじめたくらいの差しかない。

「払暁」「未明」「深夜」「夜明けまで」「東雲」「暁闇」「朝五時」と、時間を示す語が異様なほどに重ねられる詩です。しかもこれらの語彙、ある歳月を棒のごとくつらぬく特性の喩であるかもしれない語群は、同じ薄明に至るわずかな時刻を示しています。展開のなさのヴァリエーション。明るむことへの期待を反復するたびに意味が欠け落ちてゆく。この時間の意味や隆起の欠け落ちてゆく場所においては、ほとんど水平に、死が見えてくる。この詩の問いはつづきます。「そんなものを生きた証とでもいうのか」、また「そんなものと付き合ってのこの場所を/そんなものとして私有するとは/いかなる解説に耐えうることか」。

ひとりの読み手として、あえてうらがえしに問うするとするならば、誰がそれを証しだてうるのか、誰がその解説の任に耐えうるのか。これらへの応答の全荷重が、この詩においては「我」にのしかかっています。「せめて/我」を猛り狂わせなければならない手狭な場所まで追いつめられている、というよりは、死の刻まで「我」であることで占めている空間だけを、確たる場所としてゆく、そんな姿勢のとりかたを見ます。

「火を見る者」の立ち位置とはどのようなものか、様々な読み方ができると思いますが、わたしの印象としてそれは、単なる傍観のスタンスではないような気がしています。「煮る」という身ぶりが、「火を見る」、「火の番をする」ことに重なるからです。明け方の台所で豆を煮る初老の男の姿には、内心にどのような惑乱が訪れていても、その位置を動くことのできない、ある厳粛さが伴います。静かな、生活のなかの目立たぬ所作にも滾るものがある。「そんなもの」の些末事を生き抜くこと、日常を生きることの、いちいちのむずかしさを思います。

 

佐々木貴子さんの「標本づくり」から。「わたしを採集したあなたは/丁寧に/脚を持ち上げ/針を/刺す//展翅板が/ときどき軋んで/目が覚めた//鱗粉が/あなたの指を汚していた」。わたし自身は標本づくりの経験はありませんが、死を与えつつ保存するという逆説的な所作には、化石を集めたり、魚を釣って食べたりすることにはない冷ややかさがある気がしています。それはあのちいさな注射針と薬剤の冷たい印象、指先の正確な動きとも結んでいます。本作に性的なコノテーションを読み取ることも可能ですが、倒錯とはかならずしも激しい暴力のうちにあるばかりではないのでしょう。「誰も/教えてくれなかった//わたしの羽、/わたしの触角、/わたしの名前の行方を//あなたの建てた家に/きれいに/括りつけられている/わたしを」。ひとつの読み筋として、「名前」や「家」を強調して読むならば、女性に対する収奪が行われていることはもちろん、それがある種の健全な姿として陳列されることにこそ、「きれい」さの残忍がある気がしています。「わたし」の喪失についてさえ、「誰も/教えてくれなかった」という受動にとどまらざるをえないのか、もうすこしこの詩とともに考えてみたく思います。もう一篇お送りいただいた「エンドレス」にも、すこしく被害の視線があるのですが、こちらは「ポケットの中のピリオドが/今日も/躍る//歪なのに/キレイな音」というラストに不思議な愉悦があって、佐々木さんの切り詰められた現に触れきたものとして、すこしほっとする感覚がありました。

つづいて小松正次郎さんの短い詩、「神」より。「だれだねきみは?/わたしは夕暮れにたたずむ男根神に出会ってしまった/彼は冬の美しい夕暮れに裸で立っているのだった/それは私の「自我」だった」。意味内容はいちどおいて、このシンプルなイメージに惹かれます。博物館などで、男性器を模した古代の石棒を目にしますが、なんだか資料として静かな、かげりのない空間に展示されていると、居心地がわるそうに見えて、あれはもっと乱雑に、吹きさらしの野に立って、じっと地に影を落としているものではないかと思うのです。近代的な知性によっては、男根というのは抑圧されたり去勢されたりして、とかくそのままでは露出しないものとされがちですが、ここでは神でありながら、剥き出しのモノでもある。「自我」に出会うというと、ふつうは非常に観念的になってしまうのですが、イメージのおかしさがそれを救っています。対となるもう一連、「『月経樹』の冠が血を流している」。アポロンの求愛を斥け樹木となったダフネの月桂冠と月経が重なっていますが、男性の側が自我も陰部も露出しきっているときに、女性は不在の印象が強い。ここで女陰は神とはされません(そういえばダフネも女神からニンフに読みかえられてしまった存在です)。対称性を欠いているわけで、わたし自身としては、古代的なイメージに導かれつつ、道祖神のような粗野な対の像も視界において考えてみたく思いました。

堺俊明さんの「天秤」より。「枯葉も重なれば/猫を温める毛布になる冬/枯葉も/一枚の可能性として浮かんでいる/落ちているのなら//自分が命だと知って/急に夜が怖くなる」。あるときまで、自分が命であることを知らない、ということは、人間にとって重大なことである気がしています命でないならばそれはなんだったんだろう、ということを考えると、無論幼時にそう思っていたわけではないのですが、〈永遠〉と呼ぶほかないなにものかだったのではないかと思います。そこではかならずしも、生と死は不等価に分割されていない。だから子どもは、「転ぶことが少しも怖くなかった」くらいには、文字どおり命しらずでもある。このころの記憶の層は深く眠っていて、新しい記憶の層や、自分が有限者であることを忘れてしまうくらいぼうっとしているときに、一瞬だけ目を醒ます、そんな感覚に襲われることがあります。「ゆっくりと階段を上る/座って星を見ていたこの場所も/人を殺すことができるんだ/何かの形にならなければ/あっという間に/次の瞬間/僕らはいない」。生かすものと殺すものというのは、まったく別の本性をもっているわけではないのでしょう。椅子は薪にもなればバリケードや飛び道具にもなる。銃口に花を活けることもできる。ここには拮抗がある(余談ですが、シュルレアリスムと唯物論のひとつの結節点です)。「全てが/天秤の姿だった//そして天秤は/一方の傾きと重さを/知りたいから作られたのではなく/本当は/ただ真っ直ぐにつり合う姿を/見たくて/いつまでも今も作られ続けている」。ゴッドフリー・レッジョに『コヤーニスカッツィ』という主に現代都市をとらえた映像作があるのですが、これは「平衡を失った世界」の意味だそうです。質をたがえるものが、同質のものとなることなく、拮抗すること。石と雲がつり合うこと。これなしに世界は、傾斜をただすべり落ちてゆくほかない場所になってしまう。というよりも、すでにおのれが自明としている地平が傾斜していることを、足先の重心で感じながら、まだ見ぬ水平をイメージすべきなのかもしれません。

森田直さんの「お酒の席」から。「モツ一式とつながった外皮も/一度に引っぺがされて/面の皮/心のひだ/堪忍袋/すべてが露茎し脱皮するみたいに引っぺがされ/それがスッピンだろうか/性根とだろうか/野生のホモサピエンスということだろうか」。森田さん、野球観戦のとき以来のお酒の詩になるでしょうか。わたしはきっと大酒飲みなのですが、この「引っぺがされ」るという感覚はわかる気がします。意識の外壁の、瘡蓋なりに形をたもっているようなところが剥がれて煮える。けれども、それではっきりした性根や野性が出てるかというと、別段そんな面白いこともなく、タマネギの皮みたく露出した部分がまた乾いて固くなるを繰り返し、いつしか喋りすぎたな、と感じていたりします。「そんな夜更けの宴会の席で/僕は今度こそ本来が表れてしまいそうな/疑わしき自分の質に/台無しになりそうな人格に/少しも愛着を持てずに/声を枯らして/楽しくポップソングを歌っている」。自己の記憶のようでもあるし、自己がまなざした他者の記憶と混線しているようでもあるし、そうした境目があいまいになりながらも、「楽しくポップソングを歌っている」この着地点のよくわからなさにはおびただしい覚えがあり、詩のいきおいにのって、忘れていたそれら記憶の群生地にまで運ばれていくような愉悦がありました。呑んで本音で語り合おうみたいな誘いにのって碌なことになったためしもなく、本音や本来の自分などというつまらないことはシラフでさっさと処分して、せっかく酔うならホラ話でもして笑っているほうが利口なのですが、自分がたいして利口ではないときに、カラダというのはそのさかしらを諌めるように、歌い踊り疲れ寝てをやってくれているので、賢いものです。

最後に、岸本琴音さんの「空き缶」より。「少女は思いきり空き缶を蹴る/それは拍子抜けする音を立てて/万年閉店の海の家の奥/木立と木立 狭間の光へ吸い込まれる/波間の光へも吸い込まれる/青に吞まれ/プランクトンの餌になって海へかえる」。言葉は、形のあるものを判別して名指し、表現することには長けています。しかし世界に、塗り絵のようにはっきりとした輪郭があらかじめあるわけではありません。また、はっきりとした形態をもつものも、静止しているわけではなく、つねにとらえがたく動き混ざりあい変容しています。岸本さんは、いままで言葉の苦手としてきたところを、なかったことにしないで、描出しようとしています。「青に藍に光に吞まれ/少女の孤独も海へかえる//孤独/その言葉すら持たない少女がひとり/空き缶を蹴る/海の青がすべてを吸い込む/少女は歩き続ける」。言葉は、言葉すらないものの世界につねに支えられています。ほんとうの孤独者がいるとするなら、その存在は孤独という言葉や観念を使わないでしょう。人数やじぶんの淋しさを足し引きして孤独やそうでないかを計量する可能性さえないのですから。でも、その人は、かならずしも特別な人ではないかもしれない。わたしが沈黙するとき、もしかするといつも、その人であるのかもしれない。「海と空が/青や紅が/漂う空き缶を見つめる少女の身体に流れ込んでいた」。もしも、少女の身体に、べつの見知らぬ少女の身体が流れこんだら、みずからに包みこむその孤独にむけて、またみずからを包みこんでいるかもしれない、けっして辿りつけない星より遠い孤独にむけて、少女は言葉を発するでしょうか。見てきたものを、絶えまなく流入しゆらめく色彩を、伝わる約束もない言葉で告げようとするでしょうか。あてどもない問いですが、これは詩の問いであり、もしかするとわたしたち詩を書くものが、それとは知らずに潜り抜けてきたかもしれない問いであり、いまは開いたままにして本稿を終えます。

 

(ママ)