詩の教室 第九講 「黙りこくった詩の姿に」
小林レント
みなさん、ご投稿ありがとうございました。そして、せっかく原稿をお預けいただいたにもかかわらず、予定していた時期より発表が遅れてしまったこと、お詫び申し上げます。体調不良からなかなか快復できず、おのれの低い意識のままに書く言葉にまつわる違和感が払拭できず、という過程が繰り返されました。もちろん、つねづね意識の張りを維持することが健康とは言いがたいのですけれど。
この時差の利子にお返しできるものをわたしは持ちませんが、そのプロセスのなかで感じたことを、余話としてつづっておきます。不思議なことですが、あまり頭が切れないと、新聞記事や軽いエッセイなどの散文は「効率的に」読めます。多くの場合、散文のほうが詩文より物量があるのですが、その物量に対して肉体が拒絶反応を起こすために、大事な強調点や結論しか記憶に残らないのですね。論理の節のようなところだけが目に付きます。必ずしもこの読み方が便利なわけではないでしょう。結論のある言葉というのは、論理構成や終結部だけ見れば立派に見えたりもするものなので、過程を見ていかないとなんとなくごまかされてしまう。ただ、消耗した状態のなかでは、レントゲンで透視して、とりあえず反射的な判断をしておくしかないようです。
これに対して、多くの詩には結論がありません。白紙からだしぬけに一行目が始まり、また白紙に帰っていきます。いっときのトビウオの飛翔のようなものです。この場合、わたしの意識に立ち現れる水面上のプロセスのいちいちがすべて、帰結の重量を負っています。一行が全体をささえているのです。しかもそのプロセスは合理性を切断したり、裏返したり、なしくずしにしたり、叫びはじめたり、息つくいとまがありません。レトリカルですが、わたしたちの生活し呼吸する意味の海の世界の危機から、息を止めて浮上しいっとき跳ねあがる、その言葉の姿だけがあります。低い意識のもとで、その姿はおぼろげに直覚されます。沈黙と沈黙でにらめっこしている。すこしく判明な意識が快復されてくると、なにごとかを応えようと思うのですが、どうもそのときに、詩の沈黙の相貌の切実さを裏切っている気分にもなります。このジレンマはおそらく、病中特有のものではなく、意味と脱意味のパースペクティヴを複眼としてもつことの困難によるのでしょう。しかしこのズレこそが、詩を読む経験が、日常性に凝り固まった自己を崩してくれる契機であるような気がしています。
草陰 群昌美
私は眠っている。安心して欲しい。時折、強
く咳き込むことがあるが大したことはない。
眠りは深い。目を覚ます心配はないし、私は
さらに深い眠りに進んでゆくつもりだ。その
ために、ただ身を任せていればよい。わるい
夢に袖を掴まれそうになったら、何も考えず
に逃げればよい。寝返りをうてばよい。
私は眠っている。ここまで来ればだれも付い
てきやしないだろうとふり向くと、本当にだ
れもいない。見上げてもなにもない。だから
私は心細くなってマッチを一本擦ってみる。
そんな手真似をしてみる。小さな青い炎が一
瞬燃えあがり、知らないだれかの、眉間にし
わを寄せた寝顔が浮かび上がる。消える。
私は眠っている。私は眠りながら見たい風景
を求めている。私は改札のない駅の、つめた
く乾いた電車に飛び乗る。私の背後に立つ女
性のすがたが硝子に映り込み、女性は車窓か
ら外の風景をおぼろげに眺めている。私は彼
女の輪郭線の内側に、雲やビルが流れてゆく
のを見つめている。
私は電車から降り駅を抜ける。いくつかの横
断歩道と、いくつかの階段を過ぎるあいだに
数えきれない人と擦れ違う。ふと目に止まっ
た屋外広告の文言を黙読する。その数歩先で
諳んじる。様々な音や言葉。またひとつ、い
ずれ捨てるだろう不要な言葉を持ち去ってし
まう。私は眠っている。
眠っている私は噴水公園にたどり着きベンチ
に座る。ポケットを探り二錠の薬剤を取り出
す。私は薬剤を包むパッケージに力を加えた
ときに鳴る音が好きではない。私はもうこん
なものを飲まなくても眠ることが出来る。け
れど眠れないことはとてもこわい。だから薬
剤を指で押し出す。アルミが破れる。
広場には満遍なく陽が射し込み、緻密に重な
る緑葉の陰に影が息をひそめ、風は薄紙より
も軽い命に自在なかたちと速度を与えて、仔
細な理由もなくそこに集まる人々の休息と行
動にすこやかな抵抗を認めさせている。それ
を見ているのはだれか。それを見ているのは
私ではない何か。何かの目。何かの目に鳥。
眠っている私は海を知っている私はとても浅
い水辺で命を落としてしまう人がいることを
知っている私は産声の先端を知っている私は
初めて私やあなたの視力を認めた日の朝をす
でに忘れてしまったことすら忘れてしまった
私は私ではない何かの深い眠りの中からあら
ゆるものごとを眺めてみたい私。
私は眠っている。私は、ただ眠っている。だ
から安心して欲しい。あなたの細い指がマッ
チを擦る。その音が私の言葉であってもよい
。あなたの手のひらにもうひとつの夜が来る
から、そこに私たちの家を建ててもよい。わ
るい夢に袖を掴まれそうになったら、何も考
えずに逃げればよい。寝返りをうてばよい。
群昌美さんの「草陰で」は、第一行目から読み手の思考をうろたえさせます。「私は眠っている。安心してほしい」。現在形の「私は眠っている」という不可能な断定で、合理的な言説の外がいちどきに切り開かれてしまう。話者と作者と一人称の三位一体という、まったく根拠がないのに日常的に受け入れている前提がまず破壊されます。この状態の不安がいまいちよくわからない方は、「私は眠っている」と口にしてみてください。あるいは知人が、ある日ふとこの言葉を口ずさむところを想像してみましょう。虚言やトラブルへの理性的な恐怖を抱くその手前に、真に受けてしまう眩暈の一瞬があるのではないでしょうか。非常に感覚的な表現になってしまいますが、わたしは「世界が終わりそうな」感じがします。
「私」は執拗にみずからを伝達しようとするのですが、どのようにこの話者の言葉を受け取ればよいのか、その判断がつかない宙吊りの状態が継続します。この詩が特殊なのは、散文的な言述が明晰であればあるだけ、眠りという意識の停止状態との矛盾が深まっていくところです。たとえば「私の背後に立つ女/性のすがたが硝子に映り込み、女性は車窓か/ら外の風景をおぼろげに眺めている。私は彼/女の輪郭線の内側に、雲やビルが流れてゆく/のを見つめている」ヴィジョンの鮮やかさや、「ふと目に止まっ/た屋外広告の文言を黙読する」何気なく、破綻のない日常性こそ、危険の兆候なのです。
個人的な事柄ですが、幼少時、疲れ果てて布団に入り、瞬きをしたら朝だったことがあります。そこには完全な睡眠があったはずですが、とても「損をした」気分になったのを覚えています。「眠るのが好き」という人がしばしばいますが、それは意識の失墜プロセスや幻想から夢にいたる快楽で、純然たる睡眠は現象の外部にあるだろう、と。「眠れない」というのは苦痛ですが、それは焦燥感に結びついているようです。意識が消えないという意識。目的が断念されたときに訪れるはずのそれが執拗な目的の対象となるとき、眠りは逃げてゆきます。眠りのうちでさえ睡眠のための「薬剤」を飲まざるをえない、この意志の哀しくも奇妙な独立こそ不眠、あるいは過覚醒の正体であるかもしれません。
「それを見ているのは/私ではない何か。何かの目。何かの目に鳥」。夢は寝目(イメ)から転じた語だそうですが、夢のヴィジョンの視覚はかならずしも自己の所有ではありませんね。「私は/初めて私やあなたの視力を認めた日の朝をす/でに忘れてしまったことすら忘れてしまった」。また、通常の人の主観は、記憶の状況にこのように直接アクセスできるポジションにはなく、二重の忘却を認識することはできません。この部分での話者は、意識としての私以上に私を知ってしまっています。「私は私ではない何かの深い眠りの中からあら/ゆるものごとを眺めてみたい私」。ここでようやく、一人称は「話者」のポジションに接近しているかに見えます。この意志としての話者はたとえば身体の眠りの最中も覚醒しつづけていて、日常を意識的に生きる私や夢の私をその深層まで知悉している。
最終連、「あなたの細い指がマッ/チを擦る。その音が私の言葉であってもよい」。マッチを擦る行為は第二連では「私」のものでしたが、ここでは「あなた」に分離します。しかし「その音が私の言葉であってもよい」というのは、最後まで指示、許可を与えつづけるこの話者の、不気味な至上権を示してもいるようです。余談ですが、この詩の「私」を「あなた」に置き換えると、催眠の言葉に近いところもあります。「あなたはもう深い眠りのなかにいます」とか、「怖くなったら寝返りを打てばいいからだいじょうぶ」とか、「きれいな風景を探しましょう」とか。催眠の話者や精神分析医は、対象よりも対象を知っているポジションに立ちます。そうしてヴィジョンを与え、さらに記憶を探ってゆくのですね。もしかするとわたしたちの無意識の透明な言葉もまた、そんなふうに意識を休ませ、自己理解、自己形成してゆくのかもしれません。「私」に固執した詩はしばしば個人性を裏切れないところがあるのですが、この詩は不気味な領域まで鮮やかな言葉で切り開いていって、むしろ通例の「私」を揺るがす魅力がありました。
底の砂 草間美緒
細胞が死滅するように
言葉が死んでいく
あ、の
うん、の
おしだまる微笑で
沈む湖畔
底に蠢く
えびの
蟹の
よこへ歩く
足音の方から
さりり
さりり
と
音階が聞こえる
草間美緒さんの「砂の底」は、冒頭からちょっとびっくりします。言葉の死を語ろうとする言葉、「死んでゆく」過程のへりで、なおも現在形で自らの変質を語ろうとする言葉。ほとんどパラドクシカルなのですが、論理的な破れそのものに固執することなく、むしろその破れ目からなにごとかを示そうとしているように感じられます。心に生じてしまったフレーズの困難や不安を、ともかく引き受けながら書いてゆくことでしか獲得できない言葉のスケープがあり、その賭けなしには、詩作は経験となりえないのかもしれません。草間さんの詩にはその緊張感に押しつぶされない柔軟さがあるようです。
「あ、の/うん、の/おしだまる微笑」。意味が折り重なる第二連冒頭部。日常会話のふとした切れ目のようでもあります。阿吽という言葉も谺します。そしてわずかにエロティックでもある。これらの読みの可能性のすべて、言葉とその死としての沈黙の、また意味とその死としての非意味の境目にむすびついていますね。「湖畔」という場所も、水際の中間領域です。水棲生物にとってのぎりぎりの生活圏、また多くの陸棲生物にとっては水呑み場であって、生存に必須の領域でありながら、そこに深く呑まれてしまえば、呼吸ごと声が途絶えてしまう。多様な種をあつめる豊かな場所には、生と死を移行する帯域がしかれてもいます。
「底に蠢く/えびの/蟹の/よこへ歩く/足音の方から」。水底には「蠢く」ものたち。生命の静かなのたくりやびくつき。えびや蟹には死肉喰いのイメージもあります。フォルムのあるものからフォルムのないものへ。また、「さりり」の繊細な音響へ。言葉は、ある物事と、別の物事をきりわけ、世界に輪郭をつくります。しかしオノマトペは、ただ自らを、ある音階で伝達するばかりです。ここに沈殿し分解されてゆくこまかな生物たちのように、「言葉が死んでゆく」様相が示されているのかもしれません。
こころみに、もういちど冒頭に立ち返りつつ、考えてみます。「細胞が死滅するように/言葉が死んでゆく」。細胞は生きものの最小単位ですね。ヒトもまたそこに含まれる多細胞生物の場合、細胞の死がすぐさま個体の死に結びつくわけではありません。むしろ個体の維持・変容のために部分の死は引き起こされます。アポトーシス(細胞の計画死)は「離れ落ちる」意のギリシャ語で、たとえば落葉を示します。言葉という語にも、「言」という基幹の「葉(端)」というニュアンスが宿っていますね。この詩が死を告げながら、悲劇に呑まれないのは、秋の湖畔の静けさがセロファンのように重ねられているからかもしれません。持続する意味の集合組織から脱落しつつある言葉、道具としてはもはや使いものにならない、ほとんど沈黙した言葉。すこし不気味な「底」からも、豊穣を聞き取ろうとする耳が澄まされています。読み手のわたしの普段は眠っている神経も、そっと目覚めさせてくれる、そんな作品でした。
花は 佐藤諒翼
花は朽ちるのを終えた
自らを
内側から食いながら
(あるいは真っ赤な舌のように燃えながら)
足下の川岸へ
落ちていった
苦しみのなかにいる花
内から焦げる 赤銅の花
森の静けさを集める
燃える透明な花
冬に閉じこめられた
樹氷のような
あなたの苦しみ
落ちていくとき
その姿は
燃えさかる
燃えさかり
ぼくの目に
永遠に溶けない
残像と
なる
佐藤諒翼さんの「花は」は、落花のわずかな瞬間の印象。「花は朽ちるのを終えた/自らを/内側から食いながら/(あるいは真っ赤な舌のように燃えながら)」という冒頭から、生命についてのたしかなまなざしが折り込まれています。朽ちる、というと、単に衰弱を見てしまいがちなのですが、ここには過剰にいたるまで持続する燃焼があります。飢餓が、他を食らうことをやめたものの、自らを食いつぶし、蝋のように燃えほそる過程であるように、静止状態と見える生命体のうちにも、「真っ赤な舌」の動きは止むことがありません。「食いながら」「燃えながら」という継続する時間と、「終えた」という垂直の時間がふと触れあうとき、「足下の川岸へ/落ちて」ゆく瞬間が生じます。
第二連は、冬の森深くの孤絶が示され、花に捧げられる哀歌の調子を帯びます。この部分、「苦しみ」にはじまり「苦しみ」に終止しますが、両者の位相はすこし異なる。連頭を字句通りにとれば、花は「苦しみ」の「なかに」あることから、この受苦を支持しているのは漠然と外界のありようととれます。しかしながら言葉はたちどころに「内」にむかい、外界にある「静けさ」を集める「花」の、あえていえば「内面」に降りてゆく。厳しい環境下に咲く花を一個の客体的な事物としてぼんやり見ているのではなく、苦痛の「透明」な器、所有格として感受しているゆえにこそ、「あなた」という二人称で差し宛てなおすことができるのでしょう。
第三連、もういちど落花の瞬間が変奏されます。花はある生命の生殖器官、未来への役割をもつ部分としての花であることをやめ、固有の「姿」を獲得します。すこしだけ比喩的に語ってみますと、線香花火の火球はそれ自身、しばしの輝きの持続のために絶やさざるべき火種でもあるわけですが、軸から零れてしまえば、なにものへの配慮のためにでもない一時を燃えつきるばかりの光です。ここでの「姿」はゆえに、なんらかの機能を果たすための「形態」ではない。詩語の差し宛てられる「あなた」は三連以降では、もはや「花」とさえ呼ばれないのです。
最終連、この一瞬の「姿」はどのようなものに与えられるか。話者は最後に「ぼくの目」として登場します。なにごとかを語り、身ぶりするというよりは、いわば感光することを徹底します。「ぼくの目に/永遠に溶けない/残像と/なる」。フィルムのように焼き付けられるほかない自然の瞬間。そこに名もない物質としての生命の、また「あなた」の受苦を見ているだけ、この「ぼく」はよそごとの観察者であるばかりでなく、どこか倫理的な責を負っているようにも感じられます。散る桜や、滅びゆくものを一方通行的に賛美する態度とは異なり、この二者関係をわが身に刻んでしまおうとする言葉。一点、「永遠」という、経験の世界を超出してゆく言葉に、「ぼくの目」がどれだけ持ちこたえられるか、というのは、この詩が読み手としてのわたしに差し出してくる問いでもありました。ほか二作からも感じたことですが、佐藤さんの詩には、矛盾しているものごとを矛盾しているままで書く良さがあります。「皮膚と脂肪のあいだ/にしまってある/澄んでいて よどんでもいる/そんなもの」(「あこがれ」より)なんてぜんぜん正体はわからない。でも、正体がわからないものなしには、生がつかめない。途切れや、言いよどみを含みながら、その輪郭を際立たせることで、まだ名前をもたないものを伝達してゆく可能性を感じました。
水木由夫さんの「紙兎ロペといつもの朝」は、朝の食卓で目にするテレビアニメのなかの少年たちと、「私」のコントラストで展開します。「ソッすね/とロペは云う/それってマジでヤバイやつっすね/ロペは孝行息子だから/けっして敬語を崩さない//私はといえば/湯を沸かすガスの火で線香をつけ/顔も上げられないと/顔も上げないまま口にしてみて/立ったまま仏壇の鉦をふたつ鳴らす」。つねづね頭をよぎってしまう、取り返しのつかないことがあるかどうか、それは少年と大人をへだてるひとつの閾のようなものかもしれません。積極的に獲得したものではない諦念。もっとも取り返しのつかないものはそして、直視できない死者とまたその記憶であるのでしょう。しかしながら繰り返される「いつもの朝」を、息をつめすぎないで生きるためには、「ガスの火で線香をつけ」るような、すこしの荒さの作法が要請されるのかもしれません。「ロペも先輩も紙であって/紙は割れないし/紙は急降下しない/紙は表と裏とに分かれないから/バスの後部座席でも/映画館へ行く道でも/少年たちは/悲しくても淋しくなくて/せつなくても笑えるが」ロペと先輩の定義を否定文で反復しつつ、言葉の影に「私」の有様を滲ませてゆく。割れ、急降下し、表と裏の一体性を失って。終結部、「それゆえに今日も私はといえば/ラスイチみたいな一日を/マジっすか/そう呟く以外には/かすれた笑いを笑い続けるしかないのである」。過日を美化しすぎるでもなく、ただ年少の言葉に唇を沿わせてみる。かつての少年が、ふと現在形の言葉のうちに宿って、こんにちへの違和感を漏らしてしまう。この時間の重層的な感覚のとらえ方がに惹きつけられました。余談ですが、『紙兎ロペ』はぴったりな気がします。葛飾という時差のある風景の土地、やってることは高度経済成長期以降の子どもとそんなにかわらないのだけれど、持ってるメディアは最新です。
早川純一さんの「瀕死のヒグマはなぜ自撮りをするのか」は、不思議な情報をめぐる詩でした。「ねぇ/建設作業用のユニックにつるされた/400キロのヒグマの写真/最近のニュースで見たことがあると思うんだけど/実は彼の自撮り写真があるって知ってる?/きっとつるされたままの姿勢で撮ったんだろうね/あおりのアングルで/でもレンズに近すぎて顔が鼻しかおさまりきれてない/背景の空が異様に青ざめていてさ/さっきスマホの画面で見たのだ、ぼくは覚えている」。今年の九月頃だったでしょうか、北海道のコーン畑の過剰な養分で巨体に成長し、射殺されたヒグマ、メタボ熊なんて名前をつけられて言いようのない気分になった記憶があります。その自撮り写真を「ぼく」はスマホ越しに目撃します。「なぜなら、からはじめるならば/ひとが自分の知っている道だけを記していった/地図のなかに入りこんでしまいにつるしあげられた/400キロのオスの食べ足りない冬眠前のヒグマには/いくつもの自動詞と他動詞の可能性がまだつまっていて/もうとっくにくたびれていることを/きちんと遺しておきたかったからです、でしめくくる」。一部をのぞく動物はひとの言葉をもちませんし、写真はひとが撮るもので、どうしてもものの見方として一方通行の照準になる。そこを裏返してみるところにこの詩の賭けがあるかもしれません。アイヌやマタギはその生活史のなかで当然に熊を尊んできましたし、宮沢賢治は熊との約束というエコロジカルな夢を描きましたが、昨今そういうところまで人のエゴや否やというような自己意識のお話になりがちで。「わたしはそれに意味を与えたくはない/炊きあげたむかごご飯のにおいに似ている/盲腸の手術痕のにあう巻き毛のヒグマだったと/記憶している」。「ぼくは覚えている」や、「遺しておきたかった」や、「記憶している」にとどめておくこと、つまりは肯定にせよ否定にせよ、人間的な意味の世界のコンテクストにその巨体を回収するのをいっとき拒絶しつつまなざしてみること、そこに人を含んだ生きものすべてにわたる物性への通路があるのかもしれません。
小松正二郎さんの「福音」、冒頭部から。「S博士によれば人間が靈感を受けられる期間は一月のうちの半分にすぎないと言う。ぼくはすでにその半分を逃したようだ。自分を追い立てる情熱の正体も分からなくなってしまった。たとえば「四本の手のためのピアノソナタ」。モーツァルトなら、躊躇することもなく自らの手に神の手を添えることだろう。秋の乾いた光を飲み干し、薄明の薄紅色に魂を染める人。なぜなら音が光であり、生命であることを疑っていないから」。緊張感のある断章です。肉としての二手のほかに、沈黙の二手、絶対的なロゴスを持つものの獲得する弁証法。しかし「ぼく」はその時間から追放されているわけです。この箇所に導かれる次の箇所はパラドクシカルです。「逡巡する人は美しい/なぜならそのとき彼は世界から脱臼しているから/世界から意味が抜け落ちた場所にいるから/世界の一部では無くなっているから/言葉の届かない場所にいるから//逡巡する二本の腕/それは言葉の基底が失われた世界をさまよっているのだ」。現在において話者がたたえんとするのはむしろ逡巡という現在時の桎梏のほうなのですね。肉としての腕ではない、もう二本の腕が彷徨に開かれてしまっている。「失われた二本の手が触れようとする鍵盤の調律は狂っている」。狂った調律のピアノと対話すること、これは現代の宿命ですね。モーツァルトよりさかのぼって、デカルトの「欺く神」あたりから、その可能性は生じてきていた。むしろ近代はその可能性への強烈な抑圧として、人間の人間による合理性をその自壊にいたるまで発展させたのかもしれません。そこで主体をむしろ惑乱させる沈黙やエクステーゼと理性との対話空間が消えかかってしまった。ゆえに「無音の夢のなかで福音を聴くわれら」という一種中世がえりのような反応が生じます。同じ場所に帰る反動になるともともこもないので、福音の意味はかならずしもハッピネスではいられないわけですが。意欲作ながら、二章以降、観念とイメージの増量に伴い、要素が星座をつくらず部分化しているように感じられます。接続詞や助詞、助動詞に配慮しつつ語の連関をつくってみてください。もっとも大切な綻びを際立たせるために。
そのほか、森田直さんの「嘔吐」からは、言葉と低い身体感覚を重ね合わせる、森田さんの視線の持続を見ました。「君にひっかけられなかったものが/飲み込まれて沈んでいく/心が何万回動いたところで/君に吐き出すのは汚いゲロに変わりない//無事に排泄される日を待っている/僕から君に向かって/きっと画期的な手段で」。「心が沸騰し始めた」リアルタイムにそのまま語ると失敗しそうだし、かといって告げられずドロドロの底溜まりになる言葉というのも厄介なものです。時間をかけて消化し洗練するほかないのですが、強烈な武器になって結局使いどころを失ったりも。これら言葉の行方不明はしかし、詩へのひとつの通路でもあります。佐々木貴子さんの「鬼の記憶」は、疎外された鬼百合と子鬼の寓話が、子鬼にみずからの根を捧げ、人界に転生する鬼百合の言葉で語られます。豊かなモティーフであるだけ、ちょっとストーリーが観念的な意味の伝達を急いで進んでいるところがありました。「嵐の中、/橙赤色の花びらが/辺り一面に/たくさん/たくさん/散りました」という箇所のようなイメージで、説明的な意味を超える余裕をもちながら伝達することが、寓話的な語りにおいては大切だと思います。最後に岸本琴音さんの「ひかる」から。「鱗は誰に目を留められもするまい/人間の腹で虹になって/胃酸をもろともせず/踊りながら/鈍く光っている//小魚が龍になって光っている」。これまでの言葉や色彩に対する逡巡から、ひといき跳躍されたように感じました。訪れてしまったイメージ、零れてしまった言葉、これらをとにもかくにも引き受けながら、詩を展開させてゆく感覚。疑うことの誠実さが底に秘められているからこそ、あえて書きつける言葉に思い切りがあるのかもしれません。この両義性は、きっとこれからの力になると思います。