あのときシローは南條を見、ついでに桂とも目を合わせた。なんだ、いたのか、というように歪んだ笑い顔を南條に向けた。シローは白髪の教授の上着から手を離して、その手でひらひらと空を切りながら階段を下りてきた。身長差二十センチの南條の前にすっくと立った。「お前が言うのなら仕方ないか」見物人の間を縫ってまたもや忽然と消えた。

桂がそんな現場に居合わせたのはその一回きりだった。あとは匹夫の武勇譚みたいに人づてに噂が届くだけだった。いまのシローからは想像できず、当時の噂はすべてまことしやかなウソだったのかも知れないという気がしてくる。

「蓮クンの本当の父親を知っているのはこの世の中であなたと私だけ。陽子はシローに教えるべきかどうか悩んでいたので、私は自分の意見としてその必要はないと言ったの。あなたはどう思う?」

壹岐がこう言い出したのは二人揃って丸善に来た日から数日後だった。あれから半年ほどが経っていた。鹿深行の前夜には「シローの前でくれぐれも口を滑らさないように」と念を押した。知っていることも大事なことなのにと一瞬桂は思ったが壹岐の考えの方が常に正しいし、最後は陽子自身の判断に委せるしかないことだと思い直した。かつてのシローは自分の兄を慕っていた南條には頭があがらなかった。その南條の子供とは知らずに蓮を陽子と一緒に育てようとしている。

桂は壹岐との約束通りシローには隠し通した。他の人の前でもしゃべることもなかったが唯一、

「これまでであなたの一番愉しかったことかつ悲しかったことは何?」