二十年ほどのち、靖国通りから少し路地を入った新宿五丁目のドンキホーテのカウンターに並んで坐っていたとき千江さんは訊いた。千江さんはことばを疎かに使う人ではなかったので「かつ」の意味を考えた。すると、二歳から三歳にかけて、利発な子供としてすくすくと育っていく蓮が近くにいた頃が思い出された。幼いながらに自身の運命を受け入れ、シローのことを「お父、おとう」と呼んで縋っていく姿も微笑ましかった。そんな思い出に促されて千江さんの前で蓮にまつわる一部始終を語っていた。千江さんは熱心に耳を傾けた。聞き終わるとグラスの中の氷をがらがらと音立てて残りのウイスキーを飲み干した。

「いい話だわ。私のふるさとの近くの街でそんな青春を送ってきたのね。あの頃の誰とももう二度と逢うことなんてできないというところが、きっといいのよね。十年くらい経ったらあなたも私のことを寓話のように誰かに話してくれるかしら」

現実感を奪い取るようなあまりにも高い椅子が気に入ってその後何回かふたりでドンキホーテを訪れた。

蓮を連れて行くことには陽子の父母も末の妹も反対した。

「お姉ちゃん、勝手すぎるよ。せっかくここでのびのびと育ってきたのに、こんな時期に新しい環境へ移るなんて、蓮が可哀想よ。せめて高校出るまでここにいればいいのよ。ときどき逢いにくればいいじゃない。それとも、帰ってきたら?」

末の妹の膝の上で蓮は興味ありげに陽子を見つめ、突然現れた見知らぬ大人たちをときおり見つめて臆することがなかった。母親似の妹は高校を卒業したばかりで、この四月から一時間ばかりかけて日本海に近い街の短大に通っている。蓮のために実家から通えるところを選んだのだった。蓮はこの若い叔母を姉姉(ねぇね)と呼んであとを追いかけ回していた。

「釆女の家に男の子が生まれるなどは百年に一度あるかないかのことなので、この子を跡継ぎにしたいのだよ。手放すわけにはいかない。その代わり、いままでの親不孝はご破算にしてやる」

四人全員に言い聞かせるように、目尻が垂れた目が陽子そっくりの父親が言った。

「そんな」

陽子は小鳥の求愛のように一声鳴いただけだった。不条理な、ということばを飲み込んだように思えた。いたたまれずに壹岐が、

「私たち学生がどんなことをしてきて、いまどんな風になっているかはお耳に届いていると思いますが、これから生きていくうえでどうしても必要なものと言えば希望であり、光りなんです。蓮クンはその象徴。陽子も、何もかも失ってしまっても、蓮クンがいることで強い自分を保っていられる。私もここにいるふたりの男も同じです。仲間みんなで一所懸命育てますので、お願いします」

こんな風なまっとうな物言いをする壹岐を見るのは久しぶりだった。桂は自分も一緒に説教されているような気になった。父母らが壹岐のことばに感銘したかどうかは疑問だったが、ついに決断してくれた。