実家の古書店は兄が跡を継いでいる。最近郷土にまつわる古書の復刻やゆかりの偉人に関する本の出版を手がけるようになった。松村さんは苦しい経営を苦にもせず志を実現しようと奮闘する兄を崇拝している。兄を語るときの彼女は別人のように肌が艶々しくなり、潤いを帯び、目からは火の粉が飛び散る。夫婦でも、恋人でもあそこまでよろこびを共有できないだろうと明代は言う。

「私はそんな、一見クールで実は感激屋さんの松村さんが大好きなの。どうする?  これから」

「夜の海を見に港へ行こうよ」

二十六、七年前桂の父親は、帰還船に乗せられて宇品の港に戻ってきた。戦傷兵として江波の陸軍病院で療養生活を送った。原爆が投下される何ヵ月も前に傷は癒え故郷に帰ることができた。桂がこの街に来たあとになってから父はぽつりぽつりとそんな事実を話した。父にはただ通過しただけの街だったが、ここを始点とした父の生還が桂の存在につながっている。手負いの父に導かれるようにしていまここにいることが奇しき縁に思える。

宇品島は海の上の長い一本道で陸地とつながっていた。数百メートル西の桟橋から離れるにつれて闇が濃くなっていった。空には月もない。星もない。桂は明代の手を握った。冷たい掌には握り返すだけの力はなかった。ただ桂の肌の一部に吸着しているだけだった。それは桂にとってもいとおしくて、なつかしい感触だった。松村さんの部屋でもしこんな戦慄に見舞われておれば桂は明代とひとつになりたいと思い実際そうなっていたにちがいない。「仮定法過去」のように反芻したが、所詮現実化しないことの喩だった。