帰郷して半年くらい経った頃、目抜き通りのうどん屋で壹岐とばったり逢った。家は意外と近かったのに高校時代は一緒に行動することはなかった。クラスもちがったし、お互い他に親しい友達がいた。大学に入ってからも県人会の集まりで一度一緒になり、すこし話しただけで、あとはたまに構内で見かけ、会釈を交わす程度だった。

相席になると挨拶もそこそこに、あの街で恋人が待っているからもうすぐ戻るのよと壹岐は言った。なつかしいメゾソプラノだった。その人が桂だと知らされて澄子はまたビックリした。一年間弁論部で一緒だった人で、いっとき同志みたいに思っていたわと話すと壹岐も驚いた様子で、しっとりとしたこぬか雨のような微笑みを浮かべた。

「わたしも人を待たせているのよ。石崎っていうんだけど」

掛け合いのように応じたが壹岐は石崎を知らなかった。鉾を収めるように澄子は、

「まぁお互い待つ人をあの街に残してきたわけだ。これも奇蹟、奇蹟」

おちゃらけてみたが、食べ終わるとその場で澄子は壹岐に向けて石崎のことを必死に語りはじめていた。まわりのお客のことなど全然気にならなかった。

壹岐に何が起こり、なぜいまふるさとに帰っているのか澄子は知らない。また知ることが大事なこととは思わなかった。壹岐は、高校時代はもっと尖(とんが)っていたのにいまはとても穏やかな顔つきをしている。まわりの人間をそっくり包み込むような優しさを持ち合わせているようにみえた。澄子は、なんとしても石崎を目の前に現出させて一緒に壹岐の心のなかに飛び込み、その衣に包まれようとしたのだった。そのためには石崎がどんな男で、あの街で何をしたか、ことごとく話してしまわねばならない。予期した通り壹岐はときどき頷きながら親身になって聞いてくれた。

「お城へ行ってみない?」

  このまま別れるのが惜しくて提案すると、

「そうだ、高校にも寄ってみようか。教わった先生が何人かいるはずよ」

高校は天守閣近くの旧練兵場跡にあった。その日は結局夕ご飯も一緒に食べ、中津の居酒屋で潮の香りを嗅ぎながらお酒を飲んだ。そこでは何を話したという記憶はもうなく、ただ寄り添っているだけで心が和んだのだった。あの街で経験する凪のような一日だった。凪とは壹岐を喩えることばでもあった。同性といてこんなに居心地がいいのは高校生の時以来だった。澄子は壹岐を吉祥天女のようにも感じた。ずっとそばにいて欲しい人だった。

ひと足先に戻った壹岐は、赤レンガで桂に引き合わされてはじめて石崎に逢った。澄子が顔を紅潮させてまで言い立てた、堅物のような変人のような人物像とすぐには一致しなかった。むしろ剽軽さが際立っていた。ただその剽軽さは後天的に学習した保護色のようであり、いつ剥がれ落ちて地の才気があふれ出すか知れない、そんな危うさを秘めていた。

離れていると長所も欠点もそれぞれあらぬ方面へと膨らんでいく。そこに自身の理想や嫌悪が投影される。石崎を語るあのときの澄子がそうだったのかも知れない。桂を思うわが身にひきつけて壹岐はそう考え、目の前の石崎を在るがままに見るよう努めた。しばらくたって、あなたがこの街で待ってくれていることをみこちゃんは誇らしげに話してくれたわよと思い出したように教えると、石崎は顔を赤くしてうつむいた。このはにかみこそが石崎の本領で、キレイな人だと壹岐は澄子の選択眼をやっと信じることができた。