約束の時間までの一時間はあっという間に過ぎた。澄子は木のベンチから立ち上がってこの茶屋まで続く勾配のある参道を見下ろした。ちょうどそのとき、木の枝に見え隠れする十基の赤い鳥居をひとりの男がくぐってくるのがみえた。てっぺんの尖った頭を持つ男は室井にまちがいなかった。足元までは見通せなかったが、ふらふらとした歩みではないように思えた。ひとつまたひとつと鳥居をくぐってくる室井は数学理論をしゃべり出すと止まらないかつての彼に似ていた。
逢うのはほぼ二ヵ月ぶりだった。一歩足を踏み出したとき室井が右手を小さく上げた。同時に「やぁ」とか細い声がした。駆け寄って長男と八つほどしか年が違わない男を力いっぱい抱きしめた。
「澄子先生、そんなにきつく抱きしめなくてもぼくはもう大丈夫です。すべてが元通りになったのです。その報告にやってきたのですから」
ありきたりのことばは吐くまいと思えば思うほど沈黙の度合いが深まっていった。ふり絞るように澄子は、
「私の家に来なよ。一緒に棲もう。あなたには恰好の隠れ家になると思うわ。世間体を気にするなら私はあなたを養子にするわ」
思いつきではなかったが室井は信じなかった。澄子にとってもだんだん現実味の薄いことばになっていったが、本気の決心だった。
境内を離れて古い家並みの残る旧街道を連れ立って歩いた。格子戸に囲まれた一軒の家にさしかかるとかすかなけむりとともに抹香の匂いが漂ってきた。戸が開いたままの玄関口で立ち止まって顔を見合わせた。目の前で低い鴨居に貼り付けられた半紙の貼り紙が揺れている。墨字で非時宿と書かれていた。二人にふさわしい宿だと何の知識も理由もないのに澄子はひとり合点してかたわらの室井のセーターの裾を握りしめた。ほぼ同時に敷居をまたいで土間に足を踏み入れていた。
*非時宿(ひじやど) 喪家に神が行在するなどの理由からかまどの火が使えないとき、会葬者に食事を振る舞うための家を非時宿と呼んだ。多くはごく近親の家が選ばれた。