「あなたが歩道を渡り切るまでわたしはずっと見ていたかった。歩行者用の信号が点滅をはじめたのにまだ道半ばのところにあなたはいてわたしはやきもきした。早く早く、と心の中で叫んでいた。わたしがみつめているのに気付くとふいに立ち止まってしまった。あまつさえ立ち止まるのかぁ、ということばが口を衝いて出た。轢かれてしまうよぉ、と馬鹿みたいに金切り声で叫んだ。他人であるあなたを意識したはじめての出来事。覚えている? いまとなれば、もっと蜜月だったころのこと」

壹岐のからだがどんどんずり上がって髪の毛が台所の板の間にかかった。そこにはハスの葉のくぼみで揺れる水晶玉のような水滴がいくつかできている。上に乗ったからだにこれ以上の力を込めれば壹岐の長い髪はその水玉をこわしてしまう。桂にはそれがわかっていたが、昂まってくる力をゆるめるわけにはいかなかった。シャツの下から手を入れて白い磁器のようなふくらみを掌につつむと壹岐は目を閉じ口を開けてふっと短い息を数回吐いた。緑の木立を縫ってどこからともなく聞こえてくる澄み切った風の音だった。壹岐のからだはさらにずり上がった。

「あ、冷たい。やっぱり、止めよう」

一階に降りていくと番所の中から中年の男が現れた。とがめられる前に壹岐が口を開いた。

「石崎君は?  友だちなんです」

「あ、あの秀才君か。彼ならとうの昔に辞めたよ」

「じゃ帰ります」

「ああ、無駄足だったね。彼の新しい住所を教えようか」

壹岐は首を横に数回振った。癇性な仕草にもみえ、

「ひとつになる、ひとつになりたい、わたしのなかでそれはずっと念仏みたいなものだったのだわ」

照れ隠しのように呟きながら先に立って外に出た。