車をコンビニの駐車場から出した桂は左に曲がった。まっすぐ行けば大きな街道にぶつかり、そこをさらに左折すると橡の木町に通じる。橡の木町というのは千江さんが半年前まで住んでいた町である。その町のたたずまい、家々の配置や輪郭を頭のなかに刻み込んでおきたかった。コンビニの公衆電話から到着が遅くなることを告げるとかな子は理由も聞かずに「わかりました。しっかり留守番しますのでご安心を」ときまじめに答えた。夢に出てきたときに迷わないために人がもう住まなくなった家を尋ねるのだなどとは博物館の学芸員をめざす二十一歳のかな子には気恥ずかしくて言えなかった。

片側二車線の幹線道路にゆっくり入っていった。同時に左側から車椅子が歩道を渡り始めた。桂はブレーキをきつく踏んだまま通り過ぎるのを待った。若い女性が両手でグリップを握って車椅子を押している。乗っている女性は渡る合図のつもりか小さな子供のように右手をせいいっぱい高く掲げている。顔の色とは対照的に、さっきは見えなかったかいながやけに生白かった。髪の毛は相変わらずほつれているが、口を閉じ一心に前を見つめている。柔和な顔つきに変わっていた。車椅子を押す女性が運転席の桂にほほえみかけながら深々と頭を下げた。化粧っ気がまったくなかった。切れ長の大きな目とふっくらとした頬にできるキレの深いえくぼが印象的である。一面のお花畑に屹立する人の笑顔は花にもまして光り輝く。桂はそのことを母娘らしいふたりの女性に目で伝えたかったがふいに溢れてくる涙に阻まれた。

赤レンガを再訪した日から一年ほどあとに壹岐は当時パリで流行(はや)り出したブティックの視察に出かけた。パリ郊外のお店で働きながら店の運営や宣伝の勉強をするのだった。一年や二年で終わるような視察旅行ではなかった。羊やの計画はやがてパリに出店することだったからだ。「あなたの好きなおにぎりをもう作ってあげられないことが唯一心残り」東京で待っていた桂の元に届いたエアメールの末尾にはそう書かれていた。桂はおにぎりの代わりにその後何年間か待ちぼうけを喰わされることになった。

「かよひじに  つきみちてふる  はれやかさ   きのうというか  あしたというのか」

車椅子の女性と一時間以内に二度も遭遇したのは奇蹟に近い出来事だった、と遠くを仰ぎ見るように桂は思う。

(「一対」了)