二十年ほど前のあの日、一年ぶりに訪れた赤レンガの建物は昔のまま変わらずに残っていた。が、もう誰もいないし誰もやって来ない。澄子が復学するのを機に石崎は倉庫番のアルバイトを辞め、昼間の仕事に就いていた。シローと陽子は刑務所裏のアパートで蓮とともに暮らしはじめた。道の片隅に追いやられていたほころびだらけの葉っぱたちに精気が吹きこまれふたたび青く色づいていく。何年か経ってそんな魔法がやっと信じられるようになった。桂もあやかりたいと思った。壹岐はもっと強く奇蹟が起こるのを願っていた。「あなたにふさわしい場が別のどこかにあると信じているからですよ」釈放された直後の壹岐に南さんは言った。叱責のようでもあったがいつくしみに満ちたその響きが桂の耳奥にも残っている。前の夜、布団にもぐり込むと壹岐はその場所へ「もういちど行ってみたい」と言い出したのだった。

「あっちの方角から誰かがわたしを呼んでいるような気がするの」

「南さんかなぁ?  それとも京都の女将?」

「ううーん、ちがうわ。誰かといっても人のカタチをしていない。でも人でないはずはない。人のカタチをしていない人。はたしてそんなモノがあるのだろうかという気はするけど」

桂は壹岐を抱き寄せた。ひとまわり輪郭が縮み、からだの熱が熄んでいるように感じられた。いまこんな行為は気休めにすぎないとわかっていた。しかし壹岐はかけがえのない産褥の藁であるかのようにしがみついてきた。

「ただ名前を呼ばれるだけなのに、嬉しいとか、哀しいとか、怖いとか、憎いとか、辛いとか、いとおしいとか、恋しいとか、もろもろの感情がそこには籠められていて、すっと引き寄せられていくの。その塊はまるで磁石のようであるわ」

しがみついてきたものの壹岐は裸になることは拒んだ。