兄にあたるサークルの先輩は行けば必ず捕まり長期間拘留されるとわかっている闘いに出かける前夜「あいつの傍にいてやってくれないか。俺の唯一の気がかりなんだ。単純な奴だが、いいところもあるんだ。いまは方向を間違っているので、君のような人が必要なんだ」と壹岐に真顔で頼み込んだ。もちろんそんなことはしなかった。壹岐はすでに桂と深く付き合っていた。予想通り先輩はそのサークルには戻って来なかった。その後もこの街で見かけたことはない。弟も騒動が止む前に出番がなくなった役者のように忽然と消えていた。伝説はしばらくの間残ったが、やがて忘れられていった。その男はあだ名でしか呼ばれなかったからだ。実在の男はすでに名前が変わり、顔つきも変わった。風になぶられ、雨に洗われ、人の目にいくつも刺されてすっかりふやけてみえる。騒動のど真ん中で自らの鬱憤をはらすためだけに暴れていたタケルノミコトといっとき呼ばれていた男が目の前のシローと同一人物だなどと誰にも分からなかった。いま陽子と同棲しているシローがまぎれもなくその本人だと壹岐もはじめて気付いた。

何年かぶりにシローは竹刀でなく、石でもなく、人を攻撃する手段として官憲の棍棒を手にしていた。素手でないのが意に染まないという顔をしている。壹岐と陽子もその場に辿りつき、五人のさまざまな大きさの身体が塀のようになって若い巡査をとり囲んだ。予期しなかった成り行きにどう対処すべきかとまどっている風に見えた。あきらかに訓練不足である。

「この通りを歩くのにいちいち名前を名乗っていけというのかい。その根拠は何なんだ。ちゃんと言ってみろよ」

桂までが巡査に迫った。低い声だが嵩にかかっているのがわかる。

「棍棒を返せ。そうでないと、公務執行妨害で逮捕するぞ」

しきりに背後の詰め所を振り返る。同僚が仮眠をとってでもいるのか。その顔には助けを呼ぶかどうか迷いが浮き出ていた。

「返してほしけりゃ、かかってこいよ」

シローは棍棒を左手に持ち替え、右手ですばやく巡査の肩を掴んだ。巡査を見おろすほどの背丈である。

「もう行こうぜ。これ以上やるとやばいよ」

シローの耳元に石崎がささやく。

「シロー、やめなさい」

このまま放っておいたらシローはもっとひどいことをやらかすと直感的に思った陽子が怒鳴る。甲高い、小鳥のさえずりのような、脳天に直に響く声だった。そのとき壹岐は陽子とはまたちがう考えに捉えられた。シローのそばに歩み寄り、棍棒を奪い取った。それが発火点となったのかシローは巡査を押した。地鳴りのような音が響き、自分の帽子のあとを追うようにして巡査はコンクリートのうえに尻餅をついた。長い、重い棍棒を掲げて壹岐は一散に走り出した。大通りを右に曲がり、アーケードのなかに入っていく。静まり返った商店街をくぐもった靴音を耳に確かめながら走り続ける。追いかけてきたのは桂だけだった。小さな列となって反対方向に走り去る三人のうしろ姿が残像のように見えていた。