丸善ビルの裏口に陽子と連れ立って壹岐がやってきた。桂はたまたま三階に行っていたので矢野老人が応対し「ここで待っていなさい」と一存でふたりを発送室のなかに招じ入れた。

桂が戻ると「坐ってここで待つように親切に言ってくれた」「見かけは怖そうだけど、本当は優しい」と壹岐と陽子は代わる代わる言い募った。低い天板に響きわたる陽子の高くてハスキーな声とあからさまな内容に矢野老人はふふんと笑った。鼻であしらうように見えて実はほんものの笑顔だった。一ヵ月経ってはじめて見ると桂は思った。

壹岐は羊やを訪ねたあと急に桂の仕事ぶりを見たくなったと言い訳した。それは照れ隠しみたいなもので、ほんとうはついに羊やに行くことができたこととその結果をいち早く桂に報せたかったのだ。いつ行くか長い間躊躇っていた。壹岐にしてはめずらしいことだった。それを桂は間近に見てきた。

もう南さんはいなかったが、父親の社長が出てきて「いつでも戻っておいで」と言ってくれた。壹岐は「そのつもりです」と悪びれずに答えた。腕の傷もすっかり良くなったので明日からでも勤めたい、それが南さんの恩に報いることになると壹岐は考えた。この訪問で瘧(おこり)がまたひとつ落ちたように壹岐はいっそう率直になった。

「あなたは何をしても許される。それどころか、みんなに可愛がられ、期待され、信頼され、慕われさえする。うらやましいけど、そういう私もあなたのそばにいると不思議に元気が湧いてくる。おかげでそろそろ実家に預けている蓮クンを引き取って一緒に暮らそうかという気になったの」

「大きくなっただろうね。いくつになる?」

「もうすぐ二歳。顔を見せていないと実の母親を蹴飛ばすようになるかも」

仕事場の会話としてはふさわしくない方向に発展していくが桂は陽子を止めることはできない。

「シローはなんと言ってるの?」

「いまのところ賛成してくれている。オレの子として育てるから、父親だと紹介しろよな、だって」

「シローらしいね」

矢野老人は聞いて脳内回路に記録する。価値判断はくださない。それがシベリア流だと背中が語っていた。学部の事務室から丸善に電話がかかってきたときもそうだった。「中退でいいです」と言うと「いえいえ、このままでは除籍ですよ」と事務官は鬼の首でも取ったように言った。それはかつて存在せずいまも存在しないということだろうかと反芻して桂は「けっこうです」と答えたが、それよりもなぜここで働いているとわかったのかを知りたかった。そんな些末なことが気に掛かった。矢野老人はそばで一部始終を聞き届けた。本当にいいのか? 後悔するぞ、などと諫めたりはしなかった。