桂はそう言ってふたたび眠りに入ろうとしたがなかなか寝つかれなかった。さっきホームで壹岐と明代は一瞬驚いた風だったがすぐに平常心に戻った。ふたりが会うのは丸善以来二度目だった。とにかくこの人を送り出してしまおう、込み入った話はそのあとで、という生活の知恵のような判断がふたりのどちらにも働いていたにちがいなかった。発車のベルが鳴りおわってドアが閉まると向こう側にはふたりが顔を見合わせて笑う姿がある。何を語り合っているのか想像もつかなかった。ヒロインのように顔を歪めドアのガラスに吐息を吹きかけるのはそのなかに加わっていくことが物理的にできない桂の方だった。ガラスはたちまち曇っていった。

となりの女性は膝にブランケットを掛け窓に頭をもたせかけている。もう寝入ったようにみえた。左手がはみ出していたので手首をとってそっと中に押し入れた。掌に触れるとすこし湿っているが小さくて柔らかい。心地よいぬくもりは夢の世界への入り口に思えた。中で握ったままにして目をつぶった。彼女もかるい力で握り返してくるような気がした。もはや何も考えず何の悩みもなく眠りにおちていくことができた。

夜が明ける頃、列車は大阪に着いた。立ち上がって通路をつくると女性は桂を一瞥し口の端をちょっと歪めただけで一瞬のうちに立ち去った。その座席には東京まで誰も坐らなかった。眠りに落ちてからもたぶん握ったままだった掌の感触を桂は思い出そうとした。しかしそれも徐々にうすれていき、そんな女性がほんとうにいたのかどうかあやふやな気分となっていった。