一週間後に戻ると「長かったわね」と言いながら先に届いていた不採用を知らせる葉書を壹岐は差し出した。桂は試験が終わったあと小岩の高校時代の友人宅に二泊した。辞典編纂者を若干名募集した老舗出版社は交通費として一万円をくれた。ふところがあたたかくなっていたので途中名古屋で下車し幼なじみをたずねることにした。二日目には銀行が窓口で頒布する小冊子を作っている出版社の面接に出向いた。新聞の求人欄から友人が見つけてくれた会社だった。動機は冷やかしそのものだったが、お金にまつわる情報をテーマ毎に載せた小冊子の実物を見るうちに興味が湧いた。そこにはいままで嗅ごうともしなかった生活の匂いがあるような気がした。社長は熱心に語りかけ、誠意をもっと桂を口説きにかかっていた。他人からこんなに見込まれる経験もはじめてだった。一時間ほどの面接の最後に「一年後には東京支社へ行って企画、取材、執筆をやってもらいましょう」という社長の一言で決断した。別れ際「本当に退めていいの?」社長は半信半疑だったので、桂は「大丈夫です」と力強く言った。次の日もその次の日も幼なじみが仕事に出かけている間名古屋市内をぶらぶらと歩き回った。夜は彼の案内で今池や栄の安酒場で飲んだ。帰る時期を一日延ばしにしてきたが四晩目にはあの街への恋しさが臨界点に達していた。
「就職先を決めてきた」というと壹岐は、
「あなたには明代さんではなく私が必要だと思ったの。なぜかわからない。直感みたいなものよ。私も一緒に行くから」
「羊やはどうするんだ」
「あと一年勤める。そのあと、追いかけるわ」
「一年後に東京で一緒に暮らそう」
思いつきを言いながらこの考えに惹かれていた。一年間壹岐と距離を置くことができるのも魅惑的だった。なぜだったのだろう。翌々日にはアルバイトに出た丸善で明代と逢った。清々しい表情で桂を迎えた。「あら帰ってきたのね」と喜んでくれたが、その恬淡さはむしろ物足りなかった。つづけて明代は壹岐のことを褒め讃えた。あなたにはもったいないわよ。大事にしなきゃ、と諭した。一方でわたしもあなたのことが好きなのでこれまで通り付き合ってね、などと言うのだった。就職のことは明代には言いそびれた。