批評家の苦悩 大岡信の一文も、高い実作者のそれであることで小林秀雄には重いものであったはずである(ただし想定)。㈠は受動性をいくものであっても、㈢では必ずしもそうならない。能動性をいくとも言えるからである。㈢を生涯の立場とする小林秀雄は、能動性を疑わないでいられるような、健筆を振るえる批評に拠れるならともかく、能動性と受動性の間を、ときには懊悩に近い形で揺れ動かなければならなかった。偉大な思索者の精神のさなかは、湖面に浮かぶ水鳥の水面下の足のようにもがきの日々であったと言えよう。批評という文学ジャンルに固有の、批評による批評が突きつける自己対峙の局面である。

小林秀雄

小林秀雄の問題は、批評に拠ろうとする者、試みようとする者が、程度差はあったとしても、等しく抱えなければならない批評の桎梏とも言うべき課題である。批評事情に通じているわけではないが、小林秀雄論をも有する桶谷秀昭は、同論(桶谷一九七四)の「あとがき」のなかでかく述べる(言い切る)。

 

批評とは何かをあらためて問い直されるなら、批評とは純粋に「私」とは何かを主題にした文学作品の、ある固有な形式だと私は答えたい。

 

能動性を恃んだ批評原理である。小林秀雄とは批評観が異なる。批評が、文学的行為として一番高い所にあるとする(不確かだが、雑誌の北村透谷特集の「対談」中の発言か)。その桶谷秀昭には北村透谷論がある。同氏の透谷論には筆者も多くを学んだが、透谷詩における批評の問題についても同様である。以下の一文は筆者の手によるものである(わたなべ二〇一二)。北村透谷を批評のはじまりと捉える考え方も、同氏の考え方に触発されたものである。透谷が、抒情詩と一線を画していた精神の在り処を批評に見ようとしたのである。

 

源は、おそらく「批評」だった。しかも核心に韻律を聴くことのできる批評だった。批評が韻文を創った最初の言語力だった。すなわち叙事詩だった。彼が時代を越えた最初の批評家でありえた所以でもあった。批評が創る「響き」によって批評家足りえたのである。(「叙事詩の響き」(「Ⅴ結語」))

 

本題に沿って読み返せば、北村透谷の批評は、その「響き」から言っても受動性を帯びたものである。桶谷秀昭の能動性は、北村透谷に批評史的な支えを得ているとすれば、反対を行ったことになる。果敢な身の反らし方である。それでもどこか無理強いしているところがある。内に忸怩たる思いが秘められているからである。能動性も受動性の裏返しに見える。以下はそのようにして読むべきである。本人は不同意だとしても。

 

批評文を書いていて、しばしば胸を横切る疑問は、批評とは何かという疑問だ、といえば、何だか馬鹿らしいが、こういう疑問は、はなはだ厄介な問いが生む屈託の中に人をひきずり込むので、できればこれを素通りさせたい欲求の方が優先する態のものである。

その問いの厄介な性質というのは、批評の歴史的な由来をたずねる作業の厄介ではない。また、批評というものが、かならず他の文学作品を前提にしなければ存在しえないという事情が語る、なんだか二義的な役割のものであることを認めざるをえない口惜しさに伴うものでもない。

批評作品でない、詩歌、小説の作品がもつ創造性を、批評作品はもたない。端的に言って、作家は批評作品を読まなくとも、制作に何の支障も来さない。読まないことを方針にしている作家は過去にいたし、現在でもいるにちがいない。しかし批評家は、作品を読まずに批評作品を生むことができない。読むことが必須の前提であり、批評家はまず読者である。批評家がまず読者なら、作品は、読者なしには機能として存在しないから、機能としてみれば、作品をこの世にあらしめ生かすのは、読者である批評家ということになって、作品なしに批評なしという因果関係は逆転する。(桶谷・同上六‐七頁)

 

言うところの「逆転」は、ただし、人は独りでは生きていけないに近い論拠である。分かっていて言っているのである。「作品と批評に平面的な因果関係を見る決定論」とあたかも自説を揶揄するかのように続けているからである。受動性に立てた能動性と見る所以である。

以下は、反対に能動性に受動性を立てた(立てなければならなかった)、桶谷流に言えば「昭和の一人の批評家が抱いた批評の自立にともなう不幸な自覚、創造の不毛に直面したのっぴきならぬ発明、文学の独身者、余計者といった自覚」(桶谷一九九四、一八六頁)の在り方(*)を、本稿に必要の範囲内で見定めたいとするものである。いずれ大岡信に大きく旋回するための必須作業である。

 

*秀逸の小林秀雄論として知られている江藤淳の著作では、その冒頭部分で、小林秀雄の批評家としての「在り方」を念頭に据えながら、次のように述べる。「人は詩人や小説家になることができる。だが、いったい、批評家になるということはなにを意味するのであろうか。あるいは、人はなにを代償として批評家になるのであろうか。すくなくとも私にとっては、小林秀雄を論じようとするとき、最初に想起されるのはこの問題である」(江藤一九六七、五頁)と。あるいは「席」を使った箇所では、「人は批評家となるために生きない。が、生きるために――和解することのできぬ秩序のなかに自分の席を主張するために、批評家とならねばならぬことがある」(六頁)と。

 

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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