余技としての文芸時評 文芸時評(文芸批評)は、小林秀雄の批評家としての直近の仕事である。性格的には、ある意味、小林秀雄における「選評」である。同じ選評でも大岡信との間で無視できない違いを生んでいる。
同時代に生きる詩人の詩作品を扱う大岡信と、月々の新作を相手にする小林秀雄とでは、定評の上で行なわれるのか否かの、作品水準の既存条件に違いがあり、必ずしも同一視できないが、それが自分を選ぶ行為と認識する大岡に対して、以下のように小林の場合では「餘技」でしかない点は、選評・時評の違いを差し引いても開きが大きすぎる。しかも「空しい事」とまで言わしめているのである。対極に長編評論を恃んでいるからである。言わしめているのは長編評論である。長編評論の問題点――新薬の副作用である。まずは文芸時評について概嘆しているところを見る。
他人の作品に、出來るだけ純粋な文學の像を見ようとして、賞讃したり輕蔑したりしつゞけて來た事が、何か空しい事であつた樣な氣がしてならぬ。文學でもなんでもないものを強いられて、文学でもなんでもないものの爲に辛労して来た樣な氣がしてならぬ。(「批評について」全集第三巻、以下同じ)
字面だけ読むと後ろ向きもいいところである。しかし、頭ごなしに時評を貶めようとしているのではない。ここにも相応の理論(理由)がある。「正当な鑑賞」が可能か否かという時評以前への糾問である。凡作にはそれができぬからだという。出来ぬのにその上でなお行なう批評は、文芸批評一般を混乱させるばかりである。そればかりか、「自分のやっている仕事(文学時評)の非文学的な実相を忘れさせてしまう」のである。つまらないことをやっていること自体を忘れさせてしまう、そう言いたいのである。さらに続く。理由を同時代評の問題点に求めたものである。
元来自分と同時代に生き同じ問題に苦しんでゐる人を厳密に評するといふ事は、至難なわざであつて、科學的とか客観的とかやかましく言ふが、まづいゝ加減なものだと私は思つてゐる。批評家をもつて任ずる人々は、よろしくその重厚正確な仕事を自由に発展させる場所として、文學史とか古典の研究とかを選ぶのが當然であり、文芸時評の如きは餘技と心得て然るべきではないかと思ふ。
大岡信と比べるときに問題なのは、理由如何を超えて「文学でも何でもないものの爲」の部分である。たしかに大岡信の選評とは作品の水準が違う。そうかもしれない。それでも常に「名作(「傑作」)」に囚われている点が問題なのである。それというのも小林秀雄自身に小説作品があるからである。全集第二巻の「初期作品」中の数編の掌編と「創作」としてまとめられた数編(掌・短編)である。揚げ足を取るということではなく、自分が行なった「文学でも何でもないもの」との間で齟齬をきたすからである。他人の作ではないのである。文芸時評を詰るなら自分に対してまず責任を取るべきである。小説家になり損ねた族と、批評家に浴びせられる揶揄にかかずらって、暗い面持ちで耳を傾けているようではだめなのである。
自作を含め「文学でないもの」に対してなにも読めないとしたら、読み取れるのは名作を前にしての徒労でしかないとしたら、やはり問題がある。作品の良し悪し以前への視点である。欠落的であることである。あるいは人(創作者)と作品との関係が、名作の前で目を曇らせ、なにも見えなくさせてしまっていることである。時評が合わせて汲むべきは、創作行為である。水準を専決するだけで終わってはならない。行為は文学である。「正当な鑑賞」が読みとるべき範疇である。「凡作」を行為に還し、行為として読み返すことも「鑑賞」である。行為としての文学への視点の欠落は、批判原理に遡って概念としての主従関係にも再考を迫ることになる。分けても作品と作家の関係である。
壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/ ツイッター:https://twitter.com/hawatana1
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