作品と作家 小林秀雄の原理では、作品=作家である。主従関係は、作品だけでなく作家と批評家との間にもそれを求めることになる。しかし真実は、作品=作家ではない。むしろ作家は、作品から遠くに立っていたいのである。それが「行為としての文学」、あるいは創作行為の真意である。露骨かもしれないが、自分がイヤなためである。「イヤ」の切実感・切迫感が、創作行為を誘発し始動させ、作品との距離を内的距離として希求するのである。イヤを帳消しにしてくれるからである。それを作品=作家とされたのでは、外形上そう認定されやすいだけに、作家にとっては元も子もなくなってしまう、望まぬ固定観念の押し付けである。ただ作家の側でも作品=自分だとしている向きは少なくない。

それでも確認しておかなければならないのは、作品=作家ではないこと、主従関係も作品と批評家との間だけにあるのではなく、一義的には作家と作品との間にまずあるものであり、緊迫度・緊要度から言っても作家のためにあることである。それに「距離」を創るのは作家であっても、距離を距離として認めるのは作家ではないからである。作品だからである。構造的にも等号関係は、作品=距離が正解となる。

そして「距離」は、人間行為の切実さが生みだすものである限り、そして創作行為のみに許された人間的営為の代謝物である限り、作品は、名作(天才)だけが全てではないのである。まだ説明が足りないが、「距離」の裡で時評は文学(評論)として成り立つのである。

 

古典の世界 それにまだ問題がある。小林秀雄が、それくらいなら(文芸時評をするくらいなら)として提案する「文學史とか古典の研究」のくだりである。一旦は内定した作家=距離も、古典と聞かされれば、内定を解かなければならない。距離自体が成立しないかもしれないからである。それだけではない。後述に矛盾するが、分からないことばかりである。作品と作家との関係は、それが古典であるだけで、それだけの理由で関係論以前となって表現停止を突き付けられる。それを、小林秀雄は次のようにアリストテレスに言及する。以下は「文學批評に就いて」(全集第一巻)。

 

凡そ文學批評の先祖と言えば、言ふまでもなくアリストテレスである。幸ひにして私達はもう彼を身近に感ずる事は出来ぬ。だが、「詩学」の説く處、何という簡明なんという健康、羨望の念に堪へないと言はなければ嘘だらう。

 

見るからに修辞過多であるが、それはともかくまず訝しく思われたのは、「身近に感ずる事は出来ぬ」を幸いとするところである。これは小林エクリチュールの常套句ともいうべき逆説ではない。正論として述べられている。故に「幸ひにして」の意味が解せないのである。では幸いにしてでなかったらどうなるのだろうかと思うのである。

いずれにしても作家と作品との関係論でいけば、関係性の放棄に等しいのである。放棄可能であることを言っているのだとしたら、「羨望の念に堪えないと言はなければ嘘だらう」とは逆説ではなく、不遜ながら「思いあがり」にしか聞こえないのである。「詩学」が字面以上の評価を得られていない。それだけに「簡明」「健康」も素朴の別表現に聞こえてしまう。はたして別表現などでよいのだろうか。否。素朴どころか、字面を含めて、このように原理的な問いかけを絶やさないことに驚いて然るべきなのである。関係論もこの驚きにはじまることになる。

アリストテレスの『詩学』は、批評の鼻祖である。「簡明」のとおり論調は裁断的である。独断調でもあるかもしれない。しかし論調の核に潜むのは、能動を超えた能動である。原理の支配するところに生きる、その意味では原理に受動的である知性は、高い存在形態に届くもので、精神のみならず身体に対しても、否むしろ身体性にこそ自己開放的である。ここには受動による自己を選択する契機はなくても、自身を体現する自身に対する、人が人として在るべき身体性を含みこんだ強い自己同化がある。全人格的である。否、全能的である。ときにそれが「健康」に見えたとしても、後の時代が知らない健康である。作家と作品の間(関係論)に横たわる文学的(芸術的)要素である。時代に固有の関係論である。

 

ラファエロ「アテナイの学堂」(1509-1510)中央左:プラトン、右:アリストテレス

人口に膾炙した小林モーツァルト論(全集第八巻)の場合も、それを作曲家=作品で押す限り、事情は同じである。「哀しみのアレグロ」は、作品に言えても作曲家には言えない。作品論としての「哀しみのアレグロ」は至言である。作家論=天才論(人物論)への横滑りはエラーである。ここにも等号関係以前の時代的条件を背負った関係論がある。作曲家は自分のために作品を創った訳ではないという、主語のあり方が自己に定着的な近代とは異なる音楽史(「歴史」)である。それにもかかわらず、人間の普遍に高く届いている秘密を驚きとし脅威とすべきである。関係論も脅威に脅かされることから始まるのである。

少なくとも「それくらいなら」だけで「文學史とか古典の研究」が提案され、批評活動が活性化されるとしたなら、問題は提案にあるだけでなく、もともとの原理(主従関係)にもあったことになる。しかもさらに問題なのは、その原理をさまざまに疑いながらも、依然立ち位置としては、大岡信より小林秀雄の近くにしか立っていないと感じてしまうことである。これも(小林秀雄に対する)筆者を襲う受動性の表れだとしたなら、以下は受動性を背負ったままの結末である。

 

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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