3 「定見」
批評神髄 今一度、批評原理に立ち返ってみよう。議論を継続させれば、「距離」である。最終的には私(批評する立場)の在り方(「定見」)を左右する。端的にいえば、批評行為とは、創作行為のような「距離」を生むものであるのか否かが問われる。分かりやすい事例としては、学術論文の場合である。距離の排除の上に成立するからである。受動性も最初から存在しない。一方的に能動的である。
その点、作品の場合は、距離の結果であるかぎり能動性がない。なら感動はどう理解すればよいのか。たしかに「感動を受ける」というレトリックがある。しかし感動は、作品の能動性によるものではない。感動は受けても与えられるものではない。一方的に受け取るものである。作品は受け取られるものとして在るだけである。生まれるのは受動性である。受け取られなければ、ただ沈黙しているだけである。作家との間の関係は、別義に属する部分である。
そこで問題の批評である。感動を受ける批評は多い。しかし一義的には、批評を読むとは教えられることである。批評の感動は、与えられるものである。原理的には能動性の側である。小林秀雄の受動性は、もっぱら彼の批評家としての立場にあるものである。受動性と作品としての批評とは別物である。しかも元来批評行為は能動的である。小林秀雄にあってもそうである。働きかけを神髄(批評神髄)としなければならないからである。
しかし批評は、学術論文とは違う。行為としての目的が違うからである。受動性からまったく切り離されているわけではない。「距離」とも無関係ではない。距離の在り方が違うだけである。感動の受け取り方にも創作とは違う固有性が見出せる。受動や能動で簡単に二分できない。小説神髄ならぬ批評神髄である。ただ実相が不分明なのも批評である。
故に芸術作品(文芸作品)と学術論文の間にあって、批評は立場が微妙である。あえて言えば在り方自体が問題となる態である。定まった結果が得られない、観察の在り方自体が結果を左右する不確定性原理のようである。在り方自体を叙述する、そんなことが可能かどうかも、具体的にどのようなものなのかも知らずに言おうとしているのであるが、そこに批評の叙述法として固有性を問うことができるとすれば、文芸作品とは大系の異なる文体論を問う道も見込まれなくもない。これも批評神髄の範疇であるかもしれないが、理屈の勝った言い草には信は置けないのは言うまでもない。宗旨違いの議論は止めなければならない。
壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/ ツイッター:https://twitter.com/hawatana1
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