リレー書簡
三原由起子様
ご無沙汰しています。
このリレー書簡はこれから二巡目に入りますが、第一信は三原さん宛てに書くことにしました。
はじめに、最近考えていることをメモ風に書きたいと思います。
*
2011年3月11日から5年が過ぎた。そして、われわれが福島を訪ねてから1年半が経とうとしている。いま、われわれはどのような時間、場所を生きているのだろうか。
ところで、「われわれ」とはだれのことをいうのだろうか。いまは、2015年1月10、11日に福島を訪ねた「われわれ」、すなわち、浅野言朗、小林レント、玉城入野、中村剛彦、古沢健太郎、古屋友章、三原由起子、宮尾節子、山本かずこ、そして岡田の10名を指しているのだが、街を歩けば、いまや、「われわれ」は、いたるところにいると気がつく。例えば、スーパーで日々の糧——それは主にコメや野菜のことをいうのだが——を買い求めるとき、僕は、3.11以後を生きる多くの「われわれ」と出会う。スーパーに並べられているコメや野菜を手にするとき、僕は具体的に何人かの子供たちの顔を思いうかべている。大地くん、大翔くん、文恵ちゃん、智規くん……、彼らもこれらのコメや野菜を食べているのだろうか。
新聞テレビでは報道されないが、雑誌やネットで調べたり、千葉県在住の人から聞いた話などから判断すると、いま、われわれは放射性物質による汚染と無縁ではありえないことを思い知らされる。いま、われわれは生体実験下に生きているのではないかと、ふと思うときがある。
いま、ひとはなにを考えて生きているのだろうか……。なにを食べようと、いずれひとは死ぬのだからと、あるいは、これから先、生きていてもどうせいいことはないのだからと、あれこれ考えることはやめて、「あきらめて」(2016年5月5日付朝日朝刊掲載、佐伯啓思「覚悟のいる「あきらめ」」)、虚無的に生きていくのだろうか。年齢によっては、あるいは環境によっては、この場所を去って、ここではない、よその場所に行く選択をするひともいるだろう。だが、この場所で生きるしかないひとたちは、これからどのように生きていくのだろう。
「人生」とは、なにか? 思えば、僕はここ数年、そのことばかり考えていたような気がする。
人生!? このことばほどまともに論じられてこなかったものはあるまい。相田みつを的な、手垢にまみれた「人生」ということばはさんざん目にしてきたが、「人生」とはなにかと、ほんとうに考えられたことはあるのだろうか。
「私が不誠実とみなすものは、ひとを驚かせるための作品や、根源的な形而上学の観念に根ざさない——これはとても重要なことです——作品です。つまり、人生の重みと神秘の概念が、たとえわずかな息のようなものであっても、見られない作品のことです。」(フェルナンド・ペソア、澤田直訳)
いま、われわれは、それぞれの「人生」とはなにか——つまり、限られたこの時間、生命をどのように生きていくべきか——という問いと、いまこそ向かい合わなくてはいけないことを認めるべきだろう。そのとき、ひとはこの場所で生きていくことができるのだ。
*
2016年3月22日付朝日夕刊で、「震災から5年 短歌に変化」と題された、三原由起子さんの記事を読みました。それを読みながら、三原さんが、この五年間をどのように生きてこられたか、思いをいたしました。
いま歌に詠めるのはなにか、と自らに問うた三原さんは言う。「一つは「風景」だと気づきました。それと「自分の気持ち」。この二つはうそをつきません」
ひとときのつらい景色と言い聞かせそのひとときの長さを思う
対象化しようとして対象化できない「ひととき」の「長さ」を、何度も繰り返された内省を通して、ことばにしたこの歌からは、この場所を生きていくしかない、いや、ここから生きていくのだという静かな「覚悟」が伝わってきて、味わい深く読みました。
心が折れた日などに、『正法眼蔵随聞記』を時々手にとります。「学道の人、若し悟を得ても、今は至極と思ウて行道を罷(やむ)ル事なかれ。道は無窮なり。さとりてもなほ行道すべし」。いま、ここを、ひたすら生きよと語りかけてくる、このことばを真に受け止めることができたとき、われわれは、それでも「明日」を生きることができるのだと思います。
「自分の気持ち」と「風景」は「うそをつきません」と気がついた三原さん、その気づきはどのようにしてやってきたのでしょうか。三原さんが、これからどのような歌を詠まれていくのか、楽しみにしています。
お忙しい毎日を送られていることと思いますが、どうぞお身体をお大事にされますように。
2016年6月1日 岡田幸文
岡田幸文さま
返信を書くのが遅くなってしまいました。もう七月下旬ですね。
暑い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。
岡田さんの思いがとてもよく伝わってきたのと、私の思いとがリンクしているのをどう伝えればいいのだろうと考え続けていました。
先日のお手紙で、岡田さんから、
「自分の気持ち」と「風景」は「うそをつきません」と気がついた三原さん、その気づきはどのようにしてやってきたのでしょうか。
と、いう質問をいただきました。
正直申し上げると、インタビューを受けているときにふと、この五年の間で考えていたことが端的に言葉として表れたような不思議な体験でした。
原発事故後、「本音と建前」が昔よりも顕著だと思う出来事がいくつもありました。
同郷だから同じ思い。ではなく、時が経つごとに、その町の中での立場の違いが顕著になり、それが「本音」なのか「建前」なのか、わからなくなってきました。実際に会って話せば思いは通じるのかもしれませんが、ばらばらになってしまった今、マスコミやSNSで発信されていることが目立ってしまいます。そこで「ああ、あの人はそういう考えになってしまったのか。」と、互いにショックを受けることが多々あると思います。
だからこそ自分の気持ちと、風景を、現実のこととして受け止めていかなければならないのだと思い知らされるのです。
ある福島県在住の女性が「子供が甲状腺がんになったら治療すればいいだけの話。だから騒がないでほしい」と、あるところに書いていました。私はショックでした。病気になった本人はもちろん、その家族も本当に大変な思いをします。
実際に病気になった方やその家族が声を上げにくい空気を作り上げてしまうような恐ろしさを感じました。
「復興」「安全」という建前が隠してしまう本音。どう生きるかがそれぞれ問われているように思います。
また、本音で話せないことが今後、大きな問題を生み出していくのではないかと危惧しています。
2016年7月24日
三原由起子
三原由起子様
Cc中村剛彦様
7月24日付のお手紙をいただいてから、あっという間に一ヵ月半が過ぎ去っていきました。
この間(かん)、お返事をしなくてはという気持ちと、このリレー書簡のかたちは果たしていまのままでいいのかという疑念とが綯い交ぜとなっていましたが、そんなことを考えていてもしようがない、思うままに書けばいいのだと、ふと思いつき、この手紙を書き始めています。
そして、いまは、お手紙をいただいた日に戻ってみたいと、三原さんのお手紙を読み返しました。すると、「本音」と「建前」ということばが三回書かれていることにあらためて気づきました。「本音と建前」ということばは、日本人について語られるときによく引かれることばだという印象がありますが、三原さんが「本音」と「建前」について繰り返し言及されたのには、よくよくの理由があるのだと思います。(そういえば、「うた新聞」8月号の感想を玉城さん、三原さんにメールしたときも、わが内なる「日本人」ということに思いを致したのですが……)
「智慧、技能、勇気、その他なんであろうと、自分に仕えるものが自分を超えることには、強力な主権者ほど我慢ならない。秀吉は利休を愛し、重んじ、かけがえのない男とするおもいは年とともに深まっても、減じはしなかった。それでいて時に彼を憎んだ。利休は秀吉のこの気持ちを知っていた。秀吉は利休が知っていることを知っており、利休はまた秀吉に知られているのを知っていた。」(野上弥生子『秀吉と利休』)
暑い夏、電車の中で読む野上弥生子の小説は、人間を、日本人を、俯瞰するごとくに描出していて、飽きませんでした。読み始めた理由のひとつに、千利休とは何者なのか、彼が始めた「佗茶」とはなんなのか、知りたいと思ったことがあります。が、読み進めていくうちにぶつかったのは、人間とはなにかという、あの朽ちない問いでした。
「子供が甲状腺がんになったら治療すればいいだけの話。だから騒がないでほしい」
このことばが発語されるまでには、さまざまな葛藤があったことでしょう。そのことに思いを致す想像力を失ってはいけないと思います。が、同時に、ここでは「考える」ことが放棄されていることに目をつむってはいけないと考えます。
「本音」と「建前」とは、つまり、真に「考える」ことを放棄した様態ではないでしょうか。『秀吉と利休』を読み終えて去来したのは、「考える」ことを放棄しなかった者(たち)の生き方だと思いました。
と、ここまで書いて、この手紙はだれに宛てて送ればいいのかと考えてしまいました。冒頭に記した、「三原由起子様 Cc中村剛彦様」という宛名に無量の思いをこめてお送りします。
2016年9月11日 岡田幸文
浅野言朗さま
こんにちは。いつもホームページの連載「詩情と空間」をとても楽しみに拝読しております。浅野さんの明晰な論理は、その徹底さゆえに、かえって詩人としての研ぎ澄まされた感受性が伝わってきて、いつも瞠目しています。
特に去年の1月に福島県いわき市にともに行ったあと、浅野さんの「3.11」以降の思考は、「詩情と空間」において通奏低音のように継続されており、前回の岡田さんの書簡のなかの「思考しつづけること」の実践を見る思いです。
たとえば最新の「詩情と空間<17>」では、V.E.フランクル『夜と霧』に触れ、アウシュビッツ強制収容所のなかで、いかに人間が人間らしく生きることができたかということを、フランクルの言葉を抜粋しながら幾つか挙げられています。
「人間として破綻した人の強制収容所における内面生活は、追憶をこととするようになる。未来の目的によりどころをもたないからだ。(中略)これには、おぞましい現在に高をくくれるという効果がある。しかし、現在、つまり現前する現実に高をくくることには、危険な一面がある。」
これは、絶望的状況において、人間精神が陥る危険さを端的に示していますが、「現前する現実に高をくくる」ということの危険さは、どうやらアウシュビッツに限らず、あらゆる人間を取り巻く状況において適用されることだと思いますし、わたしを含めた多くの人々は、なんらかの形で「現前する現実に高をくく」って生きてしまい、思考停止にいたってしまいます。これは原発事故という人類史上最悪の「現前する現実」を前にしたわれわれへのフランクルからのメッセージとも読めます。
三原さんが日本人の「本音と建前」について苛立ちをもって第二信で述べられています。それは、フランクルの言う「現前する現実に高をくくる」ことと同じで、「建前」を繕うことで思考停止に陥り、「本音」はただ「現前する現実」に対するフラストレーションだけを溜め込み、飲んだ席で「本音トーク」などといってガス抜きする日本人の習慣はいったいどうしたものでしょう。と、ぼやきながらわたしも酒に酔いながら思考停止をしてしまう自分を恥じることが多くあります。
浅野さんの「詩情と空間」は、この日本人の「本音と建前」の習慣を、思考停止の習慣を打破する忍耐強い思考行為であって、今後もぜひ継続をお願いしたいのですが、この書簡でひとつ聞きたいことがあります。
それは、建築家であり詩人でもある浅野さんが、政治と詩をどのように切り分けているのか、という点です。
わたしと浅野さんは70年代前半生まれの同世代ですが、わたしの場合、「3.11」以前は、日本の政治家が行う政策決定は、経済成長を基礎として行われることが分かっているため、非―経済的活動である詩作は、政治からの、または政治への影響はほとんどないと考えていました。バブル景気とその崩壊、失われた20年、そして「3.11」という大まかに時代を分けるとするなら、その間、思春期、青年期、中年期と辿ってきて、わたしにとっては詩が政治と密接に関わることなど皆無でした(「オウム事件」は例外ですが、それはここでは触れずにおきます)。
しかし、「3.11」以降は変わってきました。原発事故が決定的にわたしに気付かせたのは、自らが非ー政治的人間であったということ自体が、きわめて政治的なことであったという点です。ざっくりといえば、経済成長を促す戦後の原子力政策による豊かさのなかで、わたしは非―政治的になれていた、いやならされていた、ということです。つまりわたしが非ー政治的だと盲信していた詩作の40数年の人生は、どっぷりと戦後の自民党政治に浸かっていた……。
今さら気づいたのか、と思われるかもしれませんが、わたしの頭のできはその程度だった。いやむしろ、政治の季節を終えた80年代以降のほとんどの日本の詩人、芸術家はこの政治/非政治の錯誤の「罠」に陥っていたのではないか、とさえ思います。
とはいえ、原発事故後、その「罠」は解けたのかといえばそうではない。原発事故は、むしろこの「罠」をさらに錯綜させ、見えないものにしたようにさえ思います。最近はある政治思想に基づいた、人々に直接訴える詩的言語(あるいはあえて政治に背を向けて私的日常に基づいて詩作するという、政治的言語の裏返しに過ぎない詩的言語)が多くなったと思いますが、それもきっと原発事故後の錯綜した見えない政治状況が産み出した政治的「罠」の産物だと考えます。
わたしにはまだこの状況を打破する自身の詩作の軸を見いだせていません。ただ、わたしができることは、浅野さんも何度かきてくれてます朗読ライブをすることで、わたしが長く背負った偽の非―政治的詩的言語と真の政治的身体のずれをつなぎ、現在の政治的「罠」それ自体を示すことです。
浅野さんは建築という、常に大手ゼネコンやクライアントなどなどのさまざまな関係性のなかでクリエイティブな仕事をされています。それはきっと常に政治が付きまとう「現前する現実」から目を背けずにはいられない創造行為だと察します。そして並行して詩作をされています。そこにははっきりとした断絶線はありますでしょうか、それとも相互に影響し合いながら、それぞれに「3.11」以降の創造行為が生まれているのでしょうか。あるいは相互の創造行為のズレに苦しむことはありますでしょうか。そしてそのズレはわたしたちの世代にとって、どのような過程を今後辿っていくと思われますでしょうか。
「詩情と空間」でつねにこのような命題について思考を実践されている浅野さんに野暮な質問のようかもしれませんが、公開書簡ながら、私信のつもりで思い切って聞いてみたく思いました。リレー書簡なので難しいかもしれませんが、お答えいただけたら幸いです。
寒くなってきました。くれぐれもお体にお気をつけてお過ごし下さい。
2016年10月15日
中村剛彦
P.S. 11/19日の「小さなお茶会」では、浅野さんの語りをとても楽しみにしています。お手紙と重なって申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。
中村剛彦さま
cc:岡田幸文さま
1ヶ月で答えを出すには困難な問題の数々、ありがとうございます。結論は出ませんが、現時点で考えていることを、3つ、お話しいたします。
1) 個人的には、「3.11」という不連続点、時間の断層を意識的に設定することに、違和感を抱き続けて来ました。「3.11」が大きな出来事であったとしても、「3.11」の前と後では同じように時間が流れている、と思っています。「3.11」をカタストロフと考えて、その前後で世界の認識が大きく変わった、というのではなく、時間の不連続性より連続性を見たいと思っています。
最近、昭和史の本をよく読みます。戦前から戦後への過程が書かれているものを。それらを読めば読む程、「1945.8.15」は断層ではなく、その前後の無数の出来事の連鎖からなる一繋がりの線のように見えてきます。その中の一つ、『昭和史講義—最新研究で見る戦争への道』(2015、筒井清忠編、ちくま新書)の序文の中に、「誤った認識は誤った行動を、歴史の単純化は単純な人々だけによって動かされる「単純な歴史」を生み出すであろう。」と書かれています。この部分の前には、(歴史の単純化は)「ある方向に動員されやすい人間を作るだけだろう。」とも書かれています。「3.11」という断層の設定には、そのような歴史の単純化の可能性がありはしないだろうか、と危惧しています。
写真で見た時の景色と、肉眼で見た時の景色の印象が異なって感じることはよくあります。精密さではカメラのような機械にかなわないとしても、人間の感覚も優れていて、景色の中から必要な情報を探し当てて、そこに注意を向けるので、写真とは全く異なった鮮やかさが、肉眼で見た風景にはあります。人間の目は、自由に焦点やスケールを変えることが出来るので、何気ない事物の中にかけがえのない輝きを見付けたり、絶望的な状況の中に希望を見付けたりすることが出来ます。<詩>とは、そのようなフォーカスの自由度、スケーリングの技法であると思います。
2) 「政治」と「詩」という対比に対して、「技術(テクノロジー)」ということに触れてみたいと思います。この三つが、私には、正三角形を形成しているかも知れません。
工学部出身の技術屋の私としては、例えば原発について展開されている議論が、技術を扱う人たちの立場が十分に評価されていないように感じられて、少し残念に感じていました。幾つかのことをお話したいと思います。
[・技術屋は、とても現実的です。期日までに、指定の性能を持った製品をクライアントのもとに納品しなくてはなりません。 ・技術屋は、条件そのものを決めるのではなくて、クライアントから与えられた条件に対して、最善の解決策を見付けようとします。条件とは、安全性や性能効率等もありますが、コストも重要です。コストをかければかけるほど安全性は上がりますが、かけられるコストには限界があります。その中で安全性をあげることになります。 ・安全性とは、確率の問題です。技術は、事故をゼロに近づけることは出来ても、ゼロにすることは出来ません。例えば、自動車や飛行機といった輸送機械や、地震等の予知技術もそうです。]
[・技術屋は、多くの場合、理想主義的で楽天的な人種です。技術は進歩し、その進歩は人類を幸福にする、と考えています。失敗が起こっても、教訓を導き出して、より精度の高い技術を開発しようと思っています。 ・技術は、人類の知恵の蓄積であると思います。技術屋は、絶望的な状況になっても諦めることなく、知恵の積み重ねが事態を打開してくれると信じて、努力を続けます。]
技術の運用を巡って、その暴走や悪用あるいは惰性が世界を破滅に導く可能性があることは歴史が証明しています。しかしながら、技術は、一義的には中立的なものであり、状況を壊滅的な局面に陥らせないため、また、人間が簡単に絶望したりニヒリズムに陥ったりしないための、人類の知恵の積み重ねであり、その中には、楽天的な理想主義という人間の長所が現れていると思います。そして、技術は、工学的な場面に限らず、政治のような社会制度の設計にも、もしかしたら、詩のような言語活動の中にも潜在しているのだと思います。
3) (場所)をめぐって。最後に、風景の折り畳まれ方、について触れたいと思います。理由はそれぞれですが、我々の多くは、父祖の地を離れて生きています。福島に行った時、風景が折り畳まれて行く過程を見ているように感じました。住めない場所が存在する、ということの脅威は、ある場所が住める場所であることの畏怖にも通じます。
東京のような大都市に住んでいる人たちは、父祖の土地を離れた人たちの集まりです。むしろ、そのような生き方をしている人たちの方が多いと思います。世界の各地で、父祖の土地を巡って繰り広げられる多くの争いを見れば、最早、故郷を持ち続けることは、極一部の恵まれた人にしか許されない例外的な境遇とさえ思います。
その上で、場所や風景を巡る新しいあり方について、考え始めています。
……と、手紙をここまで書いてきて、ボールを一旦ゴールキーパーに戻すように、岡田さんにお送りいたします。
浅野言朗
浅野言朗様
書簡ありがとうございました。
本来ならば、浅野さんの書簡は次の人へとリレーされるはずでありましたが、考えるところがあり、浅野さんに「ボールを一旦ゴールキーパーに戻すように」とお願いしました。それについては後述するとして、その前に、浅野さんの書簡を読んで思ったことを記しておきたいと思います。
*
2011年3月11日以前/以後という考え方が成り立つと僕が考えるのは、その日を境として、人間が統御できないものがこの地上に出現したことが、だれの目にも明らかに、可視化されたと考えるからである。
1895年、ウィルヘルム・レントゲンの「X線」(放射線)発見に端を発した、科学者たちの「冒険」の過程には、なるほどと思わせるものがある。よりよい明日に向かって考え、道を切り拓いてきた人間の営為にシンパシーを覚えることはたしかだが、それがついに人間が統御することができないものを生みだしたことについては、どのように考えたらいいのだろう。
「真ならぬものを真なるものとして決して受け入れることなく、このものからあのものを演繹するに必要な順序を守りつづけさへするならば、最後まで到達できぬほどの遠くにあるものも、発見できぬほどに隠されてゐるものも、断じてあり得ないであらう」
〈近代〉を推進してきた、ルネ・デカルトの、このことばは、いまもなお生きている。人間の理性に対する、無謬性に対する、絶対的な〈信〉。たしかに、この〈信〉があればこそ、われわれ人類は今日の繁栄を迎えることができたと云えるだろう。だが、いま、なすすべもなく放置されている福島第一原発の現状を見るとき、この〈信〉を果たして「真なるもの」として考えていいのか、疑問をもたないわけにはいかない。ハーマン・カーンは、核戦争について、「考えられないことを考える」と云ったそうだが、いま、「考えられないことを考える」ことはどこまで実践されているのだろうか。
もちろん、原子力を統御する方法を発見するのは科学者の責務であり、それは可能であるという考え方に反対するつもりはない。その考え方に基づいて、これからも真摯な努力が積み重ねられていくに違いない。つまり、人間は、無限に前進していくものである、と。
だが、こういう考え方もあるのではないか。無限なるものはない。すべては有限である。その、限りがあることを認めた上で、それをどう乗り越えていくか、考える力を鍛えていく。それもまた〈無限〉への挑戦ということができるのではないか。そして、ある日突然、思ってもみなかった地平に立っていた。こういうことがありうると考えるのは、能天気なロマン主義だろうか。
2011.3.11を境として、人間が統御できないものがこの地上に出現したことがだれの目にも明らかに可視化されたことは、事実、現実だと考える。だが、人間の意識はその現実に追いついているとは云いがたい。人は、2011.3.11以後も——いや、明治維新以後も、1945.8.15以後も、2001.9.11以後も……——、変わらずに生きてきたし、生きている。そのように生きることができる。そのことに僕は驚く。と同時に、これは人間の強さであり、また弱さではないか、と考える。最近、思うところあって、吉川英治の『宮本武蔵』を読んだが、ここには〈歴史〉の真実が描かれていると思った。そこでは、名のあるなしに関わりなく、強さと同時に弱さを併せもつ人間たちが描かれていた。そして、この人間たちが〈歴史〉をつくりあげてきたのだということを思い知らされた。
歴史とはなにか。
歴史は勝者によって書かれてきたとはよくいわれることだが、にもかかわらず、いま、なにかものごとについて考えようとすれば、カッコ付きの「歴史」であれ、「歴史」以外に適当な参照項はないのではないかという思いがある。もちろん、自力で徹底的に考えるという選択もあるだろう。だが、そのとき、いまがどのような時代であるのか、意識的であることは最低限必要だろう。アルビン・トフラーは、「古い社会と文化を脇へと押しやる」大変革として、農業革命、産業革命、情報革命を挙げたが、「原子力以前/以後」という線引きも成り立つのではないか。これは、人間の〈自然〉観の変遷の一過程である。寺田寅彦は「文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた」と云っているが、その野心が2011.3.11を招来したのではないか。
世界は 原子と 人間から なる
人間は 原子を 知った
そこから 大きな希望が わいてきた
そこには しかし 大きな危険も ひかえていた
わたくしどもは 希望を 持とう
そして みなで 力をあわせて
危険を さけながら
どこまでも すすんで ゆこう
(湯川秀樹「原子と人間」 1949年「少年少女の廣場」より)
と、ここまで書いてきて、それではこれからキミはどうやって生きていくのだいという声が聞こえてくる。もとより、それは実践によってしか答えられない問いであるが、ひとつ云えることがあるとすれば、急がないということである。
*
以上、浅野さんへの返信というよりは、浅野さんが書かれていることに触発されて、近頃考えていることを記した次第です。
あとは、浅野さんに「ボールを一旦ゴールキーパーに戻すように」お願いした理由を書くことが残されています。これについては、以下の文章をお読みいただければ幸いです。
*
リレー書簡「3.11を考える」休載について
2011年3月11日に発生した東日本大震災から5年8カ月が経った。東北地方をこれまでも大きな地震が襲ってきたのは、歴史をひもとけば、あるいは宮沢賢治の詩などで知ることができる。そのたびに、人々は乗り越えてきた。それを可能ならしめてきたのは、日本人の自然観、あるいは気質であろう。だが、2011年3月11日以降、われわれはこれまでのように生きていくことはできなくなった。それは、福島第一原子力発電所事故がもたらした未曾有の事態によるものであった。
福島の〈現在〉を一度は自分の目で見なくては、なにもいうことはできないと考えた僕は、ミッドナイト・プレスの身近な人たちに、福島への〈旅〉を誘った。そして、2015年1月10、11日、浅野言朗、小林レント、玉城入野、中村剛彦、古沢健太郎、古屋友章、三原由起子、宮尾節子、山本かずこ、岡田の10名で、福島県の浪江町、双葉町を訪ねた。
それを契機として、ミッドナイト・プレスHPで、リレー書簡「3.11を考える」をスタートしたのは、福島を訪ねたわれわれが、福島でなにを見て、そしていまなにを考えているかを語り続けることが大事だと考えたからである。そのようにしてスタートしたリレー書簡「3.11を考える」では、参加者それぞれの思いが率直に語られていた。
だが、このリレー書簡を一巡して、第二ラウンドに向かおうとしたところで、このリレー書簡という形式が、「3.11を考える」という主題にフィットしているのかという疑念が生じてきた。もとより、これは僕だけのことかもしれない。ほかの執筆者がどのように考えているのか、僕は知らないし、知ることはできない。だが、この直感を無視できないと僕は思った。その理由を語ろうとすれば、それなりの分量を必要とするが、いまはその余裕もない。だから端折って云うことになるが、個と非個との弁証法を越える道はいまだ見出されていないということになるかと思う。
たぶん、福島で見たもの、考えたことを、リレー書簡という形式で、普遍化、共有化していくことはむずかしいし、また、普遍化、共有化できるものではないだろう。
われわれが見て、考えたことを統合していく方法として、リレー書簡という形式は適当ではないと、いまの僕は考える。リレー書簡よりも、これまでやってきたお茶会のように、その場で、お互いの顔を見ながらことばを交わしていく。このソクラテス/プラトン的方法以外に、いまのアポリアを越える方法はないと考えている。
なお、これは、リレー書簡「3.11を考える」を削除するということではありません。これまでの書簡はアーカイヴで閲覧可能とします。ただ、この続きは、別のかたちで模索していきたいと考えているということです。
みなさんには上記の事情をご了承いただければありがたく存じます。よろしくお願いいたします。
2017年1月1日 ミッドナイト・プレス 岡田幸文
第一信
岡田幸文(ミッドナイト・プレス編集長)
→三原由起子(歌人)
2016.6.1
第二信
三原由起子(歌人)
→岡田幸文(ミッドナイト・プレス編集長)
2016.8.1
第三信
岡田幸文(ミッドナイト・プレス編集長)
→三原由起子(歌人)
Cc:中村剛彦(詩人)
2016.9.15
第四信
中村剛彦(詩人、ミッドナイト・プレス副編編集長)→浅野言朗(詩人、建築家)
2016.10.15
第五信
浅野言朗(詩人、建築家)
→岡田幸文(ミッドナイト・プレス編集長)
2016.11.23
第六信
岡田幸文(ミッドナイト・プレス編集長)
→浅野言朗(詩人、建築家)
「リレー書簡『3.11を考える』休載について」
2017.1.4
copyright © 詩の出版社 midnight press All rights reserved.