◯次回投稿規定

・宛先 mpwebclass@gmail.com(テキストファイルまたはワードの形式でお送りください。)

・締切り 十一月三十日

・投稿作品数 一人一篇

・商業誌からの依頼原稿(詩関連)のご執筆経験のない方に限ります。

・未発表作品に限ります。

教職に就いた経験があるとはいえ、子どもの頃から現在まで「教室」というものにつきまとうネガティブなイメージを捨てきれずにいる。恐ろしく稚拙で野蛮な、あるいは時に恐ろしく高度なパワーゲームが横行し、一生涯消すことのできぬ深傷を負いかねない場所。また、この場所での消耗に対する形ある報酬は、ほぼゼロに等しい。「教室」なんて長くいるべき場所ではない。「教室」で生まれる連帯も絆もみんな幻想だ。そしてその幻想にどこまで追従できるかが勝負になる。

数年前、ある中学校に教育実習に行った際に目にしたのだが、廊下に飴玉の包み紙が一枚落ちていれば、大きな文字で注意を呼びかける貼り紙とともに職員室にさらしものにされてしまう。裏を返せば、ここまで神経質に気を遣わなければ守ることのできない砂上の楼閣なのである、「教室」もしくは学校という場所は。

「詩の教室」――実に困ったネーミングだ。「詩の」という修飾語が付いたところで、「教室」という場の持つ殺伐とした本質がかき消されるわけではない。いや、むしろ「詩」もまた「教室」に横行するがごときパワーゲームの繰り広げられる場なのかも知れない、という可能性を示唆してしまう。そして脆弱な楼閣である可能性をも――まあ、他愛のないおしゃべりはこのへんでやめておこう。

 

さて、私の「詩の教室」では、掲載作を「入選作品」と「参考作品」の大きく二つのカテゴリーに分けることにした。前者はわざわざ説明する必要もなかろうが、全応募作の中で優れていると判断したもの。そして後者は入選には届かなかったが、講評することによって詩作をめぐる様々な問題を浮き彫りにするであろうと判断したものを指す。

所詮、投稿欄というのは、先行する詩の書き手の持っている判断基準にひっかかるかどうかを判別する場所に過ぎない。いずれは同人誌でもウェブサイトでも何でもいい、自分の作品を自分で選択して発表できる場を作って、古い人間のかけている眼鏡が捉えるものの外に、どんどん出ていってほしい。投稿欄は作品が入選するか否かに関わらず、とりあえずは他人に目を通してもらえることが保証されている場だ。しかし、その保証に甘えたまま、長く居続けてはいけない。読み手がいるのかいないのかわからぬ状態で書き続けることの孤独をいつかは知るべきだ。また、それを知らなければ次のステップへ進むことはできないだろう。

 

まずは入選作品の講評からはじめよう。

草間美緒「やはらかな火種ネ」。若者たちの自傷行為を通した生の実感という素材の料理の仕方が、非常に巧みだ。蝋燭の炎に「真横に」かざされる鉛筆の芯、またおそらくその先端に結ばれたのであろう「鉄球」などのイメージが鮮やか。自傷を通じて生の感覚を「ひきわたす」相手が明示されていない書き方も効いている。素材の周囲に朧な軌道を描きながら、ゆるやかに素材そのものよりも大きな謎を作り上げていくのに、前半の部分は成功しているのではないか。以上の点を買って入選作にしたのだが、実は書き手が最も力を入れたのかも知れない最後の二連はいただけない。「火」と対になり、かつ「ゆらめき」という共通点を持つものだからだろうか、「水辺」という語彙を召喚しているが、どこか取って付けたような感が拭いきれない。「誰とも共感できない」「発話さえできない」という、語り手の置かれている状況の種明かしに向かって意識を傾けすぎてしまったせいか。謎を謎のまま、あるいは混乱を混乱のまま読み手に差しだしても、奇跡的に通じることがある――その可能性に賭けられるのが詩というジャンルの強みであり、それに携わる者の誠実さの証しでもある。

堺俊明「星の梢」。即物性と抽象性が、少ない語彙で交錯する最終部が豊穣だ。「柱」から、「手のひら」の放熱を媒介にして、「道」へと回帰する過程は見事。ここでの「柱」や「道」は、詩的イメージの枠を軽々と飛び越えて、概念と呼び得るレベルのものになっている。「眠り」を中心にして展開する思考は、全体に占める割合がやや長過ぎる気がしないでもない。が、平易な言葉の中に屈折を滲ませる手際は中々のものだ。ただしうまさを駆使して書いたというより、うまさに書かされてしまったという部分もあるのかもしれない。その点が気にかかる。

 

次に参考作品について。

群昌美「盗賊たち」は一行一行に施された化粧がやや厚すぎる。群さんが今ちょうど「書けてしまう」時期にあたっている人であることはよく伝わってくるのだが、生まれてきたアイディアを一編の詩に可能な限り詰め込もうとしてしまっているようなところがある。もっとアイディアや言葉を「捨てる」勇気を持ってほしい。またそれを持てない限り、「書けてしまう」人止まりのままだろう。「書く」人にはなれないで終わってしまう。「重力を殺すために」「純粋だから」「虚空」等々のアイディアや語彙は、本当に必要なのか。書かれている内容の論理的なつじつま合わせとは別の次元で考えてみてほしい。むしろもっと言葉を削ったほうが、群さんの達成したいものに接近できるのではないだろうか。

佐々木貴子「分度器の空」にも群さんに通じる問題点がある。佐々木さんに対して非常に失礼な物言いになってしまうが、実は今回一番添削してみたい誘惑にかられる作品だった。一段落目の「形のない愛」は通俗的だが、このままにしておいてもいいだろう。しかし、二段落目の末尾「見下しているみたいに」や三連目の「見捨てられた街」、「風が痛くて」などといったフレーズは再考が必要だ。いずれも語り手の抱いている疎外感や劣等感を比較的ストレートに表現した箇所だが、削ったほうがいい。「やさしく」や「寂しく」などといった形容詞も同様。リズムの構成なども考えるとかなり難易度の高い作業になるかもしれないが、語り手が見ているもの、そして語り手がしたことだけに言葉を冷徹にしぼりこんでいくことによって、語り手の抱いている「姉」への複雑な心情とその克服のドラマの輪郭線はよりくっきりとしてくるのではないだろうか。ストレートな心情表現や感覚表現は、たしかに語り手の内部を細やかに再現しうる。しかし、その細やかさにもたれかかり過ぎると、一編の詩が受け入れることができるものの幅を狭くしてしまうことがある。詩が、感情の再現装置以上のものになる可能性を殺してしまう。

逸可実和子「髪を切った」。石垣りんや高田敏子あたりをちょっと想起させるうまさ。入選作に入れてみてもいいのではないかと迷った。この手のものは一見、同人誌等にありふれているように見えるが、手堅くまとめることに成功しているケースはおそろしく少ない。しかし、作品末尾で「触覚」という言葉が登場しているように、温度や軽さや痛みといった身体感覚についての描写を中心にすることによって成立している作品である。身体感覚を扱った詩というのは、実は意外に、言葉のコントロールをしやすい。たとえば、家族や職場の人間などといった他者が登場したら、果たしてこの完成度を保っていられるだろうかという疑問がわいてしまう。そこで、この時点で入選にするのは見送った。石垣や高田の詩は他者を登場させても、それに持ちこたえられるだけの強度を持っていた。

 

今回の投稿総数は十二編。言及することができなかった作品も含めて、詩の出発点にある切実さを元の形のまま、頑なに守り切ろうとしているかのような作品が多かった。また、それが問題だと思った。真白だったリンゴの断面が空気に触れると変色してしまうように、切実さも言葉に触れることで、あるいは詩の言葉に加工されることを通して、当初の形から大きく逸脱しうるものだ。このことは、言葉を扱う者が常に直面せざるを得ない宿命だ。この宿命に対して、もっと柔軟に向き合ってみることができないか、その可能性を投稿者諸氏には積極的に探ってみてほしい。