第1回「ジミー・ペイジと種田山頭火」
私が好むミュージシャンや作家などの表現者は、みな一様に弱さが魅力なのです。
人間の弱さを表現するためには、まず自ら、弱さを知らなくてはならないのではないでしょうか。
私はレッドツェッペリンの、とりわけジミー・ペイジの愛聴者であり、なぜかというと、彼の卓越した創造性に比して、ギタープレイが若干拙い部分があり、そのアンバランスさが彼の魅力なのです。
ただ拙いというわけではなく、また、最後の底一枚で踏みとどまっている技術力は、わざと狙わないとなかなか難しいのではないかと思えるほどにスリリングであり、リスナーにここまで心配をかけるギタリストは見当たらないように思われます。エリック・クラプトンやジェフ・ベック、リッチー・ブラックモアなどのギタリストと比べれば明らかなことで、彼らのギタープレイも大いに賞賛されるべきですが、強いて言えば安心して聴けることが不満です。ジミー・ペイジのプレイにはいつも心配させられています。私ももっと心配されるような演奏を心がけたいと思います。
ジミー・ペイジ率いるレッドツェッペリンのライブ映像を初めて視聴したのは高校一年生くらいの時だったと思います。レンタルビデオ店でVHSの「狂熱のライブ」を何度も借りて、自宅で大音量で聴いたものでした。「Rock'n'roll」「Black Dog」などスリリングでタイトなパフォーマンスはすぐに私を捉えましたが、ここに恐るべき巨大な壁が立ちはだかることになります。
レッドツェッペリンが好きな方なら知ってる「幻惑されてDazed And Confused」という名曲があり、これが私に忍耐を要求したのでした。約29分の大曲であり、そのうちの7分ほどはエレキギターを弓で弾く、かの有名なボウイング奏法なのでした。これが当時15,16だった私にはよく分からなかった。今だったらDVDかYoutubeで軽く飛ばしてしまうかもしれませんが、VHSで映像を視聴することには、安易な巻き戻し、早送りを許さないサムシングがあります。アナログテープを体験しないで済んだ若い方々には理解しがたい部分があると思われますが、なにはともあれ、私はアナログテープだったからこそ29分の冗長な大曲「幻惑されて」を何度も視聴してきたのですが、そのうちだんだんこの曲の良さが少しずつわかるようになってきました。荒い部分もありますが、1973年に演奏された「狂熱のライブ」はレッドツェッペリンの素晴らしさを十分に伝えていると言えます。
「幻惑されて」を苦もなく聴けるまでに調教された私はさらなる珍味を求めて、御茶ノ水の某輸入盤専門店へツェッペリンの非公式音源や映像を探しに行きました。高校一年生の時のことでした。
そこで私は1979年に英国ネブワースで演奏されたツェッペリンのライブ映像を入手しました。
「狂熱のライブ」の時のジミー・ペイジと容姿が大きく変貌していました。演奏も73年の時のものよりも悪くなっているように思われました。汗を大量にかいて、余裕もなく立ち回るジミーペイジの姿に驚かされましたが、しかし、私はそこにジミーペイジの真髄があるのだと信じて疑わないのです。
できないことができるようになることが成長なら、できたことができなくなるということは後退なのか?
いや、私はそうは思わない。なぜなら、私は1979年の衰えたジミー・ペイジの演奏に心底揺さぶられている。この感覚は真実だったから。それはジミー・ペイジの弱さが同時に魅力として作用したからで、そういう表現者はやはり稀だと私は思います。
表現者はみな私小説的な部分を持っていると思います。私には種田山頭火という俳人の日記をランダムに読むのが都合よく時間を埋める手立てであります。かつて中学生の時、国語の教科書に記されたたった二行の山頭火の俳句を読みました。
まっすぐな道でさみしい
分け入っても分け入っても青い山
もちろんこれだけの言葉でも味わうことはできます。当時、14歳くらいだった私は、俳句は五七五の定型であるべきなのに、これは許されるのか、ならば、もはやなんでもよいではないかと疑い、同時に彼は特別に定型をはみ出すことを許された人なのだと予感しました。そういう予感を私にもたらしたことはすでに山頭火の尋常ではない才覚であり、私がたった二行しか知らないということは、振り返ってみれば、貴重な時間であったと思います。
最近某動画サイトで山頭火を主人公としたドラマ「なんでこんなに淋しい風吹く」を観ました。フランキー堺が主演でしたが、こんなセリフがあります。「(大山)澄太さんには明日があるでしょう。来月もあるでしょう。きっと来年もあるでしょう。わたしには明日がわからん。」
明日がわからない生活が山頭火の俳句を生み出しているのであり、それがなんでもないような一行に輝きを与えているのではないか。
山頭火とジミー・ペイジはかなり遠いけれど、その不安定なスリリングさが私を捉えて離さなかったのであり、私もそうありたいと願っています。
稲垣慎也(いながきしんや)1975年生まれ。シンガーソングライター。’94年頃より都内のライブハウスを中心に活動。最近は並行して中村剛彦氏のポエトリーリーディングにエレキギターで参加している。趣味は川崎長太郎や鴨長明、種田山頭火といった気になる文士を研究すること。
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