~新グループ「死んだ目」について~
詩人の中村剛彦さんと音楽家の古沢健太郎さんに私を含めた3人で「死んだ目」というなにやらネガティヴな印象を与えかねないグループを結成しました。言葉と音楽の融合を試みるという点で、本連載のタイトル「音楽と言葉の出会うところ」にも都合よくマッチしており、ジミーペイジや種田山頭火のこともいささかネタ切れしているところだったので、今回は私たちの新グループ「死んだ目」について、私の視点から、書かせていただきたく思います。
もともとは、中村さんと古沢さんの二人による作品がサウンドクラウドにあがっていて、これは立原道造の「石柱の歌」ですが、古沢さんのPCを使用したアンビエントサウンドというのか、一つの音世界を形成しております。
→古沢健太郎+中村剛彦 「Michizo sound scape」
私の方では、中村さんが書くことはもちろんの事、これまで以上に朗読することに重点を置く方針を打ち出していることを知り、であるならば「私が出演しているライブハウスでポエトリーリーディングしますか、私が袖でギターを弾き、違和感があればやめてもよいし、手応えがあれば続けていけばいいので、とりあえずやってみましょう」と提案したのがはじまりでした。ライブを重ねていくうちに、3人で音を出すアイディアが生まれ、3人でやるなら、グループ名があったほうがスッキリしていいとライブハウスの方に言われ、言われるままに中村さんが酔っぱらいながら、浮かんだグループ名。それが「死んだ目」です。
私もグループというと高校生の時分に同級生とバンドを組んだこともあり、ピア二ストやベーシスト、ギタリストと二人でライブや音源制作に取り組んだりしてきましたが、詩人と組むのは初めてです。なにもわからないまま、こんな感じかな? と恐るおそる音を出してみているところです。
中村さんは基本的になにを弾いても高評価する傾向があるので、真にうけて安堵しないことが重要なのですが、おかげさまでのびのび弾かせていただいてます。ジミー・ペイジのようにエレキギターをヴァイオリンの弓で弾いたり、エフェクターで奇抜な音を鳴らしても今のところ、ダメだしされたことはないのですが、私としてもマンネリにならないように気をつけています。
今のところ「死んだ目」とはなにか? 私たちにとっての「死んだ目」的な必然とはなにか? みたいなことが、底辺にテーマとして隠れていると私は一人で勝手に思い込んでおり、手がかりとしては埴谷雄高の長編小説「死霊(しれい)」と2006年11月に亡くなった詩人の金杉剛君が念頭にあります。金杉君は思えば今年(2016年)で亡くなってから10年の歳月が流れたのです。熊本から泥酔したようなメールが彼から送られ、返答に窮しているうちに彼は入浴し、そのまま浴室から出てくることはありませんでした。彼の葬儀で中村さんと初めて会いました。私は金杉君から最後の言葉をリレー選手のバトンのように受け取ったのではないかと思います。埴谷雄高が云うところの「精神のリレー」だと思い、なにか難しい選択を迫られた時には、「死んだ目」である金杉君に問います。金杉君は埴谷雄高が「死者は想念に乗ってやってくる」と書いたように、アッと言う間もなく現れて、適切にアドヴァイスしてくれます。死者は生きている人のように損得や欲望に振り回されることはなく、あっさりと当たり前のことを教えてくれます。私にとって金杉君は「死んだ目」をもった現在進行形の友人です。死んだ人が生きていた時以上に言葉に力を持つようになるのは、ジミヘンのようなロックスターや三島由紀夫、太宰治のような著名な作家ばかりではないのでしょう。私にとっては金杉君が亡くなってからの10年は奇跡の連続でした。そして、まだまだ途上のようです。「死んだ目」ははじまったばかりだから、金杉君に問いかけることが多くなりそうです。
→金杉剛詩集『がらん』、詩篇「胸・連続する途上」(中村剛彦ブログ「金杉剛とは伝説か」より)
中村剛彦+稲垣慎也live at APIA40(2015年10月14日、「死んだ目」結成前)
稲垣慎也(いながきしんや)1975年生まれ。シンガーソングライター。’94年頃より都内のライブハウスを中心に活動。最近は並行して中村剛彦氏のポエトリーリーディングにエレキギターで参加している。趣味は川崎長太郎や鴨長明、種田山頭火といった気になる文士を研究すること。
Youtubeチャンネル: https://www.youtube.com/channel/UC4QLieeAt3zQB2ZPpTZrMWw
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