第3回「ジミー・ペイジと種田山頭火・戦争編」
月のあかるさはどこを爆撃していることか(山頭火)
山頭火は太平洋戦争が始まる前年の1940年(昭和15年)に他界しているので、その後の日本の悲惨な終戦を全く知ることがなかった。日々の生活は自由律俳句を愛する人々の援助や行乞による布施によって、辛うじて賄われていたが、晩年の食生活は戦時体制の影響により、次第に苦しいものとなっていった。同じように周囲の援助によりなんとか生き延びていた辻潤は1944年(昭和19年)に餓死しているので、山頭火はよい頃に亡くなったとも言えるのではないだろうか。
山頭火は生活力のない自身を深く恥じており、社会の中で無用の存在であることを充分に自覚していた。米は海外のものが混ざった混合米であり、自由に購入できない切符制となれば、山頭火の分け前はますます乏しいものとなる。
この時代に非戦反戦という選択肢は極めて困難だったようで、山頭火の日記には次のような記述がある。
「米内首相退職、組閣の大命は近衛公へ下つた、――日本は東洋は世界は急速度に転換しつゝある、旧制度は刻々に崩壊し新秩序が刻々成立しつゝある、――私達は切に切に時局の安定を希求する、それを実現するために強力政治を熱望する、――現状維持派よ、退却せよ、新人登場せよ、過渡的生活を止揚して新生活を建設しよう。」
新生活とはなにか。「贅沢は敵だ」というスローガンに代表される緊縮された生活とそれに適応した精神のことだろう。山頭火はそれを違和感なく受け入れた。俳人としてというよりも行乞僧として。
曹洞宗開祖道元の言葉に「良薬を事とすることは形枯を療ぜんが為なり」とあり、つまり食事は薬のように体を維持するためのものだから、必要以上の贅沢な食事などはよくないと説いているのであって、それは戦時体制によく馴染んだのではないだろうか。
山頭火は1940年に松山の一草庵で世を去り、1971年(昭和46年)にジミー・ペイジ率いるレッドツェッペリンは広島を訪れた。まだ山陽新幹線が開通する前の広島でメンバー自身の熱望によりコンサートが行われた。収益金700万円はすべて、広島市を通じて原爆被爆者救済に当てられた。海外のミュージシャンがこのような行動をとることは前代未聞の大事件である。ボーカルのロバート・プラントは市役所での会見で次のように語った。
「私達は原爆投下の後に生まれました。だから私達に誰かを責める権利はありません。それは既に過去の歴史として起こってしまったことで、それをしてしまったのは人類なのです。 誰かが悪いというわけではありません。しかし、誤った過去は責められるべきです。私達はこのことについて誠実に謝罪の気持ちを表現したいと思います。そして少しでも私達が、爆撃によって苦しんでいる人たちの助けになれば、と考えたのです。音楽は人々に平和と楽しさを与えるものです。その音楽をやっている私達が少しでも力になれるなら、実に光栄だと思います。」
足は手は支那に残してふたたび日本に(山頭火)
山頭火の一代句集「草木塔」の中に「銃後」という章があり、それはまさに山頭火が目撃した戦争が、集められた句集となっている。銃後とは後方支援のことだ。戦場にいる兵士だけが戦争に参加しているわけではなく、戦場の外にあっても戦争により必要とされた全ての営みは銃後である。そういう意味において、私は随分長い間銃後という立場に立たされている。アメリカがなした戦争に戦費を供出すれば、それは銃後ということだろう。その実感さえない。山頭火には銃後という自覚、戦場と連続している世界の果てで辛うじて生き延びているという実感があった。私にはインターネットがあり、山頭火が見られなかった戦場の映像を沢山見ることができるが、山頭火が感じ取った実感からは程遠いものだ。
稲垣慎也(いながきしんや)1975年生まれ。シンガーソングライター。’94年頃より都内のライブハウスを中心に活動。最近は並行して中村剛彦氏のポエトリーリーディングにエレキギターで参加している。趣味は川崎長太郎や鴨長明、種田山頭火といった気になる文士を研究すること。
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