「殉教への召命」?

〈荒野〉での残虐行為は村の人々の知るところとなり、村では征伐隊が組織される。囮を仕掛けて、罠にかかった人喰い集団は殺害されていく。首領のピエール・クレマンティと部下のフランコ・チッティは捕縛され、切り立った岩山の上にある村の聖堂で鐘の鳴り響くなか、裁きをうける。そこで、首領の男は差し出された十字架の許しを拒絶する。

回復したユリアンのところにイーダが別れの挨拶にやってくる。二人が歩きながら会話を交わす、その動きのなかで、重厚で美しい列柱の構成が美をつくりだすキオストロ(回廊)の映像がとてもすばらしい。ここで「豚の話に対して、ヘブライの話があって」という親たちの話を聞いても、率直な感情を崩さないイーダを演じるアンヌ・ヴィアゼムスキーの透明な明るさが、このともすると、陰惨でグロテスクな感情を呼びおこしかねない物語を卑俗さから救い出し、ひとつのパゾリーニ風恋愛劇にまで昇華している。それが奇妙な不可能態の恋愛劇であるとしても。ユリアンは、背中を見せ、帰ろうとするイーダに、独り言のように語りかける。

「ぼくが夜中に、ぞっとするような悪夢にうなされるからといって、驚くほどではない。だが、その悪夢こそはぼくの人生のなかで、最も真実を告げるものだ。ぼくはこれよりほかに、真実に向き合う方法をもたない。

ぼくはついこの間、こんな夢をみた。ぼくは水たまりでいっぱいの暗い通りにいた。歩道のふちや、ほかの世界の光―オーロラかシベリアの長い日没だろうか―にみちたその水たまりを、何かを探して歩いていた。何だったろう。もう思い出せない。たぶん、おもちゃだろう。それで最後の水たまりに来たら、そこに一匹の豚がいるんだ。子豚が……。ぼくはつかまえたり、触ったりしようと、豚に近づいていく。すると、豚は喜んで、ぼくをかむのだ。そいつはぼくの右手の四本の指を噛んで引きちぎろうとするが、指はちぎれずに血も出ていない。まるでゴムでできているみたいだ……。噛みつかれて驚いたぼくは、その指をぶらぶらさせて歩き回る。

これは殉教への召命だろうか?

なにが夢の真実か誰が知ろう。夢が真実について気がかりな思いを抱かせるという真実を除いて。」(『幻影の規則』より)

『パゾリーニあるいは〈野蛮〉の神話』のファビアン・ジェラールによれば、このシーンの長い独白(ここでは最後の部分のみ引用)は、後にパゾリーニ自ら「まるごと全部」自分を投影したものであることを認めているという。水たまりのある暗い道で豚に噛みつかれるという夢もまた異様なものだが、それを「殉教への召命」と解釈する感性はもっと異様である。あえてそれを、パゾリーニの最期と結びつけないとしても、不気味な印象は拭いきれない。

 

グループの首領ピエール・クレマンティとフランコ・チッティは刑として荒野の火山灰地の上に四肢を打ちすえられ、放置される。ピエール・クレマンティは反抗者の不羈の面貌を見せて、「俺は父を殺し、人間の肉を喰らった。そして、歓びにうち震える」と初めて、人間の言葉を口にし、叫ぶ。それは、世界にたいする絶対的な拒絶であるかのように、くり返される。エピグラフ1の不服従の若者は、人間社会に対して極限の〈反抗〉を遂行したために、容赦なく人間社会から抹殺されたのだ。そして、彼らの身体は荒野の野獣によって、むさぼり喰われ、この世界から消えていく。

 

そして、豚に食べられた人間

現代ドイツでは、クロッツとヘルディッツが互いの「弱み」を発展的に解消しようと、同盟関係を結ぶことになる。その祝宴のなか、ユリアンは宏大な邸を抜け出し、村へと向かい、そして豚小屋のほうへと消えていく。

その後、祝宴が行われている邸に農民たちがやってくる。とても面白いラストシーンで、とりわけウーゴ・トニャッツィと農民たちとのやりとりは絶妙なので、再現してみる。

ヘルディッツ(ウーゴ):(農民たちが面会を求めていると聞いて)イタリアのトリアッティが彼らのリーダーだ。

クロッツ:トリアッティは死んだ。

ウーゴ:プラカードや旗は?

召使い:いいえ。

クロッツ:連中を入れろ。

農民たち:ユリアンさんは毎朝、豚小屋へ豚に会いにいく。

ウーゴ:面白い話だ。

農民たち:今朝もいつもの道を通っていかれた。お祝いのこの日にです。

ウーゴ:君たちの無邪気さや我々の良心を封じるためにか?

農民たち:彼を責められない。誰よりも我慢強い。彼は自らを封じ、目を閉じた。彼は告白を請うような犠牲者ではなかった。彼は自らの魂に責任をもっていた。我々を欺いたが誠実だった。

ウーゴ:それは弔いの言葉ではないか?

農民たち:ユリアンさんを思うと泣けてきます。

ウーゴ:彼は死んだのか?

農民たち:豚小屋で。

ウーゴ:それで?

農民たち:それを目撃した少女が「豚がユリアンさんを食べている」と。

ウーゴ:それから?

農民たち:皆で豚小屋へ行きました。少女の言葉が正しいかどうか。

ウーゴ:全部話してくれ。

農民たち:豚の鳴き声がやかましく、何をそんなに鳴くのか、けれど原因がわかりました。

ウーゴ:わかった?

農民たち:彼女の言ったことは本当だったのです。

ウーゴ:言葉どおりに?

農民たち:肉や骨をガツガツと。

ウーゴ:本当か?

農民たち:ユリアンさんだと思いまして、その時は……

ウーゴ:その時は?

農民たち:身体中ほとんど食べられていて、豚が最後に手を、指を一本ずつ食べ、ついに全部食べられたんです。影も形もなくなりました。

ウーゴ:全部か、指一本、爪も髪の毛も残さずか?

農民たち:はい、髪の毛すらも。

ウーゴ:豚が、そんな信じられない。

農民たち:本当です。この目で見たのでなければ、とてもお話できません。

ウーゴ:では、跡形もないのだな。服も靴ひもすらも?

農民たち:何もないです。

ウーゴ:ボタンも?  (ウーゴのこの念の押し方がいい)

農民たち:何もかもです。

ウーゴ:それでは、シーッ! 誰にも言うなよ!

 

ウーゴ・トニャッツィは、慎ましく寡黙な農民たちから巧みに話を引き出していく役柄で、ほとんど合いの手のような言葉しか話してないが、むしろそのことで農民たちに一部始終を物語らせる。人間の食用である豚が逆に人間をガツガツとむさぼり喰らうという、およそ言葉を絶するおぞましい話を、ウーゴは農民たちとの軽妙な言葉のやりとりによって、ある種の寓話へと変容させている。だから、この作品にはほとんど陰惨な印象は残らない。むしろ、「豚小屋」というある種、忌み嫌われなくもない場所へ行き、豚に喰われ、この世界から消えてしまうというメタファーには、詩的な変容の物語性すら感じられる。パゾリーニは、ピエール・クレマンティ、フィリップ・レオー、「愛らしい」(パゾリーニの言葉)アンヌ・ヴィアゼムスキーといったフランスの若手俳優陣を起用し、その脇をウーゴ・トニャッツィ、アルベルト・リオレッロ、さらにマルコ・フェレーリといった個性的で懐の深いイタリアの俳優で固めることによって、この映画を六〇年代後半の世界に対峙する軽やかな寓話的な作品として提示することに成功している。

「従順でもなく、不服従でもない」ユリアンが豚小屋で豚と戯れ、その挙句、豚に喰われて、この世界から杳として消えてしまうという最期は、詩人パゾリーニの現在の世界に対する根底的な拒絶の意識の、詩的なメタファーなのである。