パゾリーニ探索3

「伝統のなかにだけ、わたしの愛はある」

    ──パゾリーニの第三作『ラ・リコッタ』      兼子利光

 

 わたしは〈過ぎ去りしもの〉の力である。

 伝統のなかにだけ、わたしの愛はある。

 わたしはやって来た

 廃墟から、教会から、祭壇画から、

 アペニン山脈とアルプス前山地域の

 忘れ去られた村々から

 そこには兄弟たちが生きていた。

 わたしは狂人のようにトゥスコラーナを歩き回る。

 わたしは飼い主のない犬のようにアッピアを歩き回る。

 あるいはローマの、チョッチアーリアの、世界の

 黄昏を、夜明けを眺める、

 埋葬されたある時代の末端の縁から

 わたしの生存という特権で居合わせた

 〈歴史以後〉の最初の行為として。

 死んだ女の胎(はら)から生まれたものは

 化け物のようだ。

 そうして、成熟した胎児であるわたし、

 どんな現代的なものよりも現代的なわたしは

 もはやいない兄弟たちを探し求めて、彷徨い歩く。

       (パゾリーニ『ラ・リコッタ』脚本より訳出)

 

パルチザンに殺されたパルチザン

これはオムニバス映画『ロゴパグ』(一九六三)の第三話『ラ・リコッタ』のなかで、オーソン・ウェルズによって朗読される(ただし、イタリア語吹き替えは作家のジョルジョ・バッサーニ)パゾリーニの詩である。いくつかの註が必要なので記しておく。

七行目と最終行の「兄弟たち」:ここでは複数形となっていて、これはパゾリーニの四歳下の弟グイードとその同志たちがイメージされている。第二次大戦末期、グイードはパルチザングループに所属してドイツ軍と戦っていたが、ユーゴスラヴィアのチトーが送り込んだグループの絡んだパルチザンの党派的内紛で、十九歳になったばかりで殺害された。グイードは同志たちが同じイタリア人のパルチザンに殺されるという絶望的な状況のなかで、かろうじて逃亡するが、負傷しているうえに執拗な追跡にあい、ついには追跡者に捕らえられ殺害されたのである。パゾリーニはこの弟の死に衝撃を受け、その後の詩作品や小説でくり返し弟の死を悼み、追慕して心の激しい痛みを表出している。

 

「わたしはわたしの弟グイードのことを

 思うたびに、いまでも嘆き悲しむ。

 他のパルチザン、共産主義者たちによって

 殺された一人のパルチザンだった。」(パゾリーニ「詩による序言」)

 

映画のなかで朗読された詩のなかにも、そんなパゾリーニの憤怒の念の入り混じった悲痛な心が読み取れる。「わたし」は「狂人のように」「飼い主のない犬のように」あてどなく街を歩き回るのであり、もはやこの世にいない兄弟たちの幻影を求めて、幽鬼の如く彷徨うのである。

十四行目の〈歴史以後〉(Dopostoria):これはパゾリーニの造語ではないかと思うが確証はない。ある歴史上の切断、断絶あるいは大転換をイメージしている言葉のように思われる。詩の冒頭で「わたしは〈過ぎ去りしもの〉の力である。」とあるように、この〈歴史以後〉、消滅へと追い込まれつつある過去の秘めたる力を「わたし」は、体現するものだと宣言しているかのようだ。それだから、「わたし」の愛するものは「伝統」だけなのである。

一九五〇年代後半から六〇年代前半にかけて、イタリアは急激な経済成長を遂げていく。それは他のヨーロッパ諸国と比べても目覚ましいもので、いわゆる「経済の奇跡」と呼ばれるものである。国内総生産は五一年から五八年にかけて年平均五・三%の伸び率で、経済成長率は頂点となる六一年には八・三%を記録している。とりわけ北部は大工業地帯へと変貌し、周辺の農村や南部から農業を離れた人々が大量の労働者として北部に流入した。

国民所得は五八年から六三年の五年間で倍増し、五四年に放送開始となったテレビの契約者はその年九万人だったのが、五七年六〇万人、六〇年には二〇〇万人を超えている。工業生産の牽引車である自動車産業の代表的な会社であるフィアットはその生産額を十年間で十倍のばしている。(以上、数値などはシモーナ・コラリーツィ『イタリア二十世紀史』村上信一郎、橋本勝雄訳による)

そのフィアットが低価格で購入できる軽自動車を生産・発売したということは象徴的なできごとである。それは、この〈経済の奇跡〉がイタリアを農業国から工業国へと押し上げただけでなく、イタリアが一挙に大衆消費社会へと変わりつつあることを示唆している。つまりイタリアはこのわずか十年間で農民文明から〈新資本主義〉と呼ばれる大衆消費社会へと変貌してしまったのである。

この空前の〈経済の奇跡〉、この戦慄すべき圧倒的な〈現在〉はいままであったものを消し去りながら出現したのであり、その猛烈な資本主義の現代的な形態としての〈新資本主義〉と、それがイタリアの歴史にもたらした断絶の意識を捉えて、パゾリーニは〈歴史以後〉と名付けたのだと、考えられる。

十八行目の「どんな現代的なものよりも現代的な」:これは伝統を愛し、〈過ぎ去りしもの〉の力であると自負する「わたし」は決して頑迷な保守主義者、伝統主義者というのではなく、消滅しつつある愛惜すべき過去のなかにこそ、圧倒的な勢いで迫る〈現在〉の矛盾を超えうる現代的な思想が秘められているのだという、パゾリーニの思想表明というふうに捉えたい。

 

オムニバス映画『ロゴパグ』の〈現在〉

まさに、このような経済成長に沸き立つイタリア社会のなかで、パゾリーニは『アッカトーネ』や『マンマ・ローマ』といった、人々に忘れ去られたというよりも気づかれもしなかった〈存在〉を明るみに出し、およそ経済成長のなかで形成されていったプチブル中産階級の市民社会とは相いれない、それどころか自分たちの存在を脅かし、不安にさせるような〈存在〉を映像として定着させていったのである。そして、三作目となる『ラ・リコッタ』では、さらにその映像思想は明瞭なものとなっていく。

 

オムニバス映画『ロゴパグ』のタイトルは、四人の監督ロッセリーニ、ゴダール、パゾリーニ、グレゴレッティの頭文字をとって、つけられたものである。パゾリーニの作品の位置を知るためにも、他の監督の作品について触れておきたい。

 

第一話「純潔無垢」ロベルト・ロッセリーニ

ロッセリーニはいわゆる戦争・レジスタンス三部作のあと、『イタリア旅行』『不安』といった男女の葛藤、危機を心理主義的に映像に定着させようとした興味深い作品を撮っている。その後、どういった経緯からなのか、経済成長期のなか再びレジスタンスものを二本撮る。例えば、その一つ『ロベレ将軍』(一九五九)などはデ・シーカの好演にもかかわらず、すでに現実に対峙する実存的な緊張感は映像から失われ、記憶のなかのレジスタンス、歴史となったレジスタンスがあるだけであった。

しかしこの短編作品は、そんなレジスタンスの重い記憶を振り払うような軽妙なコメディとなっている。国際線のアテンダント、ロザンナ・スキャファーノ扮するアンナマリーアは魅力的な美人で、嫉妬深いイタリアの恋人に仕事先で撮ったビデオを手紙のように送る貞淑な女性である。あるとき、タイへのフライトで乗客の男がアンナマリーアに一目惚れし、滞在先でつきまとうほどの病的な執着を見せるようになり、アンナマリーアを困らせる。そのことをビデオレターで知った恋人とその父親は、アンナマリーアが〈純潔無垢〉で母性的なイメージを男に与えるから男につきまとわれるのだと考え、アンナマリーアに逆のイメージ(髪を金髪に染め、身体のラインが出るようなコケティシュな服装に変え、バールでもすぐに男を誘うような)で男に接するように指示する。すると男は逃げるようにアンナマリーアから離れていき、ラストではビデオ映像のなかの〈純潔無垢〉なアンナマリーアにまといつく哀れな男の姿と、コケティシュな姿態のこわく的な女に変貌したアンナマリーアの姿を見て呆然とする恋人の姿がある。

 

第二話「新しい世界」ジャン=リュック・ゴダール

冒頭に「この物語はすでに始まった核社会の愚かな予測しがたい結末を描いている」と予告されるのだが、作中「パリ上空十二万メートルで原爆」などと新聞に書かれているわりにはパリの街は平穏で、ゴダール風に言えば「美しい」のだ。「放射能汚染を免れた最後の男」の独白から成るこの作品は、この最後の男がいささか精神に異常を来していると考えなければ、辻褄があわないのである。なぜなら、街も人々も平穏そのものなのだから。この男は恋人との関係に齟齬を来し精神が不安定となり、恋人の行動を疑いプールまで後をつけ監視をする。原爆が爆発したというのに、プールでみんな平穏に泳いでいるのも不思議だが、この最後の男は恋人が見知らぬ男と抱き合っているところを目撃し激しく嫉妬するのである。とても「最後の男」の所業とは思えない。「核の脅威」という幻想をことさらに現実に拡大し、混乱し、恋人の〈不実〉に嫉妬心を募らせていくというのが、この作品のテーマだが、ここには他の三作品にみられるユーモアも笑いもなければ、世界の現実に対する批評性も感じられない。kkkk

ゴダールはロッセリーニの『イタリア旅行』を見て、一台の車と男と女がいれば映画ができると「勘違い」して、『勝手にしやがれ』を撮ったといわれている。ここでは、「核の脅威」と男と女がいれば映画ができるとでも思ったかのようだ。作品のなかで、原爆雲をイメージしたのか、上半分を雲で覆われたエッフェル塔が映し出される。しかし、この「美しい」都市景観の映像も、最後の男の「愚かな予測しがたい」嫉妬心とは乖離しているとしか思えない。

 

第四話「放し飼いの鶏」ウーゴ・グレゴレッティ

空前の経済成長に沸くイタリアの大衆消費社会の内実を風刺をこめて描いた作品で、半世紀を経た現在でも、まだ古びていないところがあり、驚かされる。ウーゴ・トニャツィ演じる中年男は妻と小さな子ども二人の四人家族である。小さな女の子はテレビから流れる言葉を意味もわからず覚え、訳もわからず口に出して親を困惑させる。とある休日、一家は戸建ての家の土地を探しに郊外へと車で出かける。途中、郊外型のファミリーレストランで食事をとる。そこで父親はメニューにあるブロイラーの鶏と放し飼いの鶏の違いを子どもに説明することになるのだが、映像はいつしか食事をする客の姿がブロイラーの鶏に変わっている。おいしい放し飼いの鶏を選んで食べようが、お前たちの姿はまるで柵のなかでエサをついばんでいるブロイラーの鶏とかわらないと皮肉っているようだ。誰もが同じようなファミレスへ出かけ、同じようなものを食べ、同じようなものを買い求める大衆消費社会。〈新資本主義〉の波は人々の生活の隅々にまで浸透し、人々の感性まで支配しようとしているかのようだ。

それから、宅地用の広大な土地を見学する。まず現れたのが、管理を任されている南部からの移民である。まるで外国人であるかのように言葉も解さず、あいている土地にキャベツを植えているのを、土地所有者に見つかり激怒される。いわゆるイタリアにおける南北問題をじつにコミカルに描き出している。

ところで、この作品の最初のほうで小さな男の子がおもちゃのピストルで、父親相手にふざけるシーンがある。父親は誰の真似かな、とヒーローのキャラクターの名前をいくつか挙げるのだが、子どもはいずれも否定し、最後に「ぼくはパゾリーニだ」と言って、父親をあきれさせるのである。これは六一年十月、ローマの新聞に一面トップで「パゾリーニ、給油係を襲い、強盗未遂で逮捕」という記事とともに、映画『ローマのせむし男』(カルロ・リッツァーニ)に出演したパゾリーニの、機関銃をふりかざした写真が掲載された事件を暗示しているようだ。この些細なシーンはそんなでっちあげられたスキャンダルを背景にしていて、それがこの監督の遊び心なのか、あるいはその当時、子どもでも知っているようなスキャンダルだったのかはわからない。(この事件についてはドミニク・フェルナンデス『天使の手のなかで』、ニコ・ナルディーニ『魂の詩人 パゾリーニ』参照)

 

『ラ・リコッタ』――〈受難〉の物語

そして、第三話『ラ・リコッタ』

リコッタとはリコッタチーズのことで、話はいたって簡単明瞭である。オーソン・ウェルズ扮する映画監督はローマのチネチッタ撮影所で聖書に関する作品を撮っていた。キリスト受難のシーンで大泥棒役としてキリストとともに十字架に磔となるボルガータのエキストラ俳優ストラッチ(ぼろきれの意味がある)は長時間、十字架上で待機していたため、空腹を抑えきれず、撮影本番のまえに隙を見て現場を抜け出し、隠しておいたリコッタチーズをたらふく食べ、満足して現場に戻る。しかし、哀れなストラッチは撮影本番の十字架上で消化不良のためか卒倒し、本当に死んでしまう。

パゾリーニは作品の冒頭で語っている。

 

〈『ラ・リコッタ』は受難の物語であり、それはわたしにとって今までふりかかったことのない最大の受難でもある。受難を物語る聖書は今まで書かれたことのなかった最も崇高な書物である。〉

 

パゾリーニにカトリックを侮辱する意図など全くないにもかかわらず、この作品はローマの裁判所に押収され、パゾリーニには宗教侮辱罪で四カ月の禁固刑が科せられる。映画のなかの主人公の受難とその映画じたいが引き起こした自らの受難、そして聖書のなかのキリストの受難をパゾリーニは重ね合わせている。パゾリーニの受難は、パゾリーニがもつ本来的な宗教への畏敬の念が、イタリア市民社会の一般的なレベルの宗教観念と齟齬を来しているというだけでなく、これはイタリア市民社会のパゾリーニに対する〈迫害〉でもあるのだ。

作品のなかで、監督に扮するオーソン・ウェルズが記者の質問を受ける場面がある。おそらくこれは、パゾリーニ自身の言葉と考えていいと思われる。

 

この作品で何を表現したいのか?

〈わたしの深い、心の奥底の、古風なカトリック信仰〉

イタリア社会について、どう思うか?

〈ヨーロッパで最も無知な国民、最も教養のない中産階級〉

 

 

イタリア社会に対する明らかな罵倒の言葉を、パゾリーニは世界的な著名人オーソン・ウェルズに語らせる。それ自体、スキャンダラスなことであるが、一方でこの作品は、パゾリーニの前二作にはなかった陽気な軽妙さといったものを感じさせる。

撮影現場が舞台ということもあり、大音響の音楽とともにツィストを踊るスタッフなど、まるでフェリーニの映画を思わせるような陽気な雰囲気である。さらに、ストラッチが現場を抜け出して、駆け足でリコッタを買いに行くところ、あるいは洞窟に隠しておいたチーズを食べに食べまくるシーンなどは早回しの映像が使われていて、コミカルな楽しい演出となっている。

イタリア経済が奇跡の成長を遂げるなかで、イタリアはヨーロッパだけでなく世界経済のなかに組みこまれていくことになる。「社会は変わった。変化している」(パゾリーニ)のだから、ローマの下層プロレタリアートをイタリアの現実の問題として見るのではなく、それを第三世界の多様な現象の一つとして考えるべきだとパゾリーニはいう。だから、「ストラッチはもはや特殊な問題としてのローマの下層プロレタリアートの主人公なのではなく、第三世界の象徴的な主人公である」という。

いまやローマのボルガータの現実を超えて、第三世界の象徴的な存在となったストラッチが空腹に耐えきれずリコッタチーズを大量に食べ、食べすぎたために、こともあろうに十字架上で死んでしまうという〈受難〉を描いたこの『ラ・リコッタ』はアレゴリカルな、凝縮された象徴性に富む〈詩〉のような作品であり、ストラッチという他のパゾリーニ作品には見られない、どこか親和感を感じさせる風貌の、犯罪から離れた善良で愛すべき存在を創り出したということからも、パゾリーニの代表作の一つと言っていいかもしれない。