パゾリーニ探索4
「愚かな旧い世界と残酷な未来の世界で」
兼子利光
パゾリーニがマリリンに捧げた詩
パゾリーニの〈マリリン・モンローに捧げられた愛情あふれる詩〉
……
金色の純真無垢な小鳩のように彼女は飛び去った。
世界はきみにその美しさを教え込んだ。
そうしてきみの美しさは世界のものとなった。
愚かな旧い世界と
残酷な未来の世界で
彼女は、少女の小さな胸、かくも容易く
露わとなる小さなお腹まわりをほのめかすのを
恥ずかしがらない美でありつづけた。
そしてこのことによって彼女は美であった、
それは有色のやさしい乞食たち、ジプシー、
マイアミやローマのコンクールでの勝者である
小商人の娘たちがもっているのと同じ美しさなのだ。
世界はきみにその美しさを教え込んだ。
そうしてきみの美しさはもはや美ではなかった。
でも、きみは旧い世界のように愚かで、
未来の世界のように残酷な子どもでありつづけた……
きみと権力によって所有されたきみの美しさとの間には
現在のあらゆる愚かさと残酷さがあった……
……
金髪の白い亡霊となって、彼女はこの世を去った。
……
『ラ・リコッタ』の後、パゾリーニはドキュメンタリー作品『怒り』(一九六三)をつくっている。これはドキュメンタリーというよりも、ニュースフィルムを編集したもので、パゾリーニ自身の映像はないが、パゾリーニによる詩形式のコメントが付されている。右に訳出した〈マリリン・モンローに捧げられた詩〉も彼女の死を伝えるニュース映像に付されたものである。朗読はジョルジョ・バッサーニと画家のレナート・グットーソである。
この作品は思想的に全く相反する二人、一部がパゾリーニ、二部が作家のジョヴァンニ・グァレスキが担当して、「我々の生活が不平・不満、不安、戦争の恐怖によって支配され、実際、戦争にさらされているのはなぜか」という問いに応えるかたちで構成されている。ジョヴァンニ・グァレスキがいかなる人物かわからないが、パゾリーニとのやりとりで、「私は右翼のブルジョアで、あなたに人種差別主義者と非難されているが……」と言い、パゾリーニは「あなたは反動主義者で右翼の側、国家制度を擁護する立場の人間だ」と批判している。つまりパゾリーニとは全く反対の立場の思想の持ち主であるようだ。
わたしはこの作品のパゾリーニの部分だけを三十年前にイタリア文化会館で観ているが、残念ながら、第二次大戦の死屍累々たる暗い映像しか記憶に残っていない。
マリリン・モンローの映像に付され、朗読された詩はもっと長いものであるが、パゾリーニ自身によって手直しされた、より完成度の高いもの(『幻影の規則』一九九一年、所収)から引用した。マリリン・モンローは周知のように、多量の睡眠薬の服用で三十六歳という若さで一九六二年に死去している。彼女は〈世界〉によって商業的に育て上げられ、消費され、そのことで〈美しさ〉を獲得していった。しかし、それは愚劣な旧い世界と残酷な新しい世界との錯合した構造のなかでの、創り出された〈美しさ〉でしかなかった。パゾリーニはその〈世界〉に押しつぶされてしまった哀れなマリリンを、多義性を帯びた言葉を効果的に使い(下手な訳でそれを十分に伝えられないのが残念だが)、哀悼する。パゾリーニはその詩の言葉のなかでせめて、彼女のもつその本来の〈美しさ〉とその無垢な魂をこの〈世界〉から救抜しようとしているかのようだ。
性愛のインタビュー映画『愛の集会』――パゾリーニのネオレアリズモ
パゾリーニは初め詩人として出発し、その後、小説や映画の脚本を書き、六〇年代に映画を撮りはじめる。さらにパゾリーニにはジャーナリスティックな才能もあり、七〇年代に夕刊紙コリエーレ・デッラ・セーラに『海賊文書』という論説文を連載している。そして、『怒り』の次に撮った作品『愛の集会』(一九六四)はまさしくパゾリーニのジャーナリスティックな才能の映画的表現と言っていいものである。
『愛の集会』はその当時は扱いにくいテーマである性愛にまつわる事柄について、イタリア全国であらゆる年齢、職業の人々つまりは子どもから学生、労働者、軍人、売春婦、知識人にいたるまで、パゾリーニ自身が街頭に出てインタビューしたものをカメラに収めたものである。「全国を旅するセールスマンが人々の性的嗜好を調査する。商品を売るのではなく、人々の考えを理解し、忠実に報告するのが目的である」とナレーションされるように、パゾリーニは「全国を旅するセールスマン」となって、街角、リゾート地の海辺、大学、工場、農村地帯へとマイクをもって繰り出していく。
パゾリーニのこの試みについて、友人のアルベルト・モラヴィアは答えている。
「……フランス人がシネマ・ヴェリテと呼ぶ映画がイタリアで初めてつくられるということだ。性の問題は映画だけでなく、日常会話でもタブーなのだから、インタビューはそれ自体で意味のあることだと言える」
映像のつくり手であるパゾリーニ自身が、被写体であるインタビューされる人々へのインタビュー行為そのものを記録するのだから、確かにこれはシネマ・ヴェリテと言えるのかもしれないが、わたしにはむしろ、これはパゾリーニ版ネオレアリズモの映画ではないかと思える。
冒頭、シチリアのパレルモでの子どもたちに対するインタビュー。
パゾリーニ:どのようにして、子どもが生まれるか、知ってるかい?
子どもたち:コウノトリが運んでくる。
パゾリーニ:誰がコウノトリに赤ちゃんを預けるんだい?
子どもたち:神さま。
パゾリーニ:神さまがコウノトリに預けて、コウノトリはパレルモに降りてきて、赤ちゃんをどこに置くんだい?
子どもたち:お母さんのそば、ぼくは見たことがあるんだ。ぼくのお母さんの友達の子どもが生まれた時、赤ん坊は小さなかごに入れられていたんだ。
パゾリーニ:誰が入れたの?
子どもたち:コウノトリ。
パゾリーニ:でも、手を持っていないコウノトリがどんなふうにして?
子どもたち:神さま。
パゾリーニ:神さまとコウノトリのどっち?
子どもたち:神さま。
パゾリーニ:ああ、神さまね。赤ん坊のお母さんはどんなふうだった?
子どもたち:赤ん坊のお母さんは幸せで満足そうだった。
こんなふうに、パゾリーニは子どもたちの素朴な言葉をそのままくり返し、問いかけていくことで子どもたちの思考のなかに入り、子どもたちに共鳴して、子どもたちの素直な言葉を引き出すことに成功している。この時のパゾリーニはとても楽しそうで、パレルモの下町のまだ貧しさの残る街で働く人々の姿やにぎやかなざわめき、明るい日差し、どこからともなく聞こえてくる女性の歌声、そうした人々が現実に生きて、生活している躍動感のなかでインタビューはなされる。そして、パゾリーニの質問に答える子どもたちの、時には照れくさそうな、時には真剣な、時には戸惑いながら見せる生き生きとした表情を捉えた映像はまさしくパゾリーニのネオレアリズモなのである。
海辺で、大学で、工場で……
〈人生における性の重要性に対して、人々はどうふるまうか〉という調査のインタビュー。
パゾリーニが質問をするときのテンポは速く、小気味いい。質問をするのは一般の人々だけでなく、有名人であることもある。
とある海辺のリゾート地。一時、アイドルスターだったジャクリーヌ・ササールに、パゾリーニは日本の芸能リポーターのように突撃インタビューする。
パゾリーニ:ちょっといいですか、ジャクリーヌさん。あなたにとって、セックスの問題は現代の生活のなかでとても重要なものですか?
ジャクリーヌ:はい。
パゾリーニ:あなた自身にとってもですか?
ジャクリーヌ:すべての人にとってと同じように、わたしにとってもです。
パゾリーニ:特別な、過剰な関心をもって?
ジャクリーヌ:ごく普通によ。
パゾリーニ:あなたによれば、我々の生活でセックスの問題がとても重要だという現実があります。このことは望ましいことですか?
ジャクリーヌ:まあ、なんて質問かしら。
パゾリーニ:確かに、ちょっとばかげた質問でした。
ジャクリーヌの戸惑う表情が印象的なシーンであるが、パゾリーニの突撃リポートは失敗に終わったようである。
パゾリーニが学生時代に住んでいたボローニャでは、出身校であるボローニャ大学(パゾリーニは後に、在学中の、つまり戦時下のボローニャ大学について「二流のファシスト大学」とけなしている)の学生と、サッカー場ではプロリーグの選手たちにインタビューしている。ちなみにパゾリーニはサッカー好きで、自らプレーもする。この学生やプロ選手は、明らかに街頭の若者や軍人、南部の人々とは違っていて、階層や地域の違いを如実に実感できるボローニャのインタビューとなっている。
大学では、学生と論争にいたる場面もある。
パゾリーニ:いや、ちがう。わたしは言葉の厳密な意味でのコンフォルミズモ(順応主義)について話しているのだ。きみの考えではこの順応主義は何に由来していると思う?
学生:長い伝統が背景にあると思う。
パゾリーニ:我々の宿命であるかのような順応主義の、この在り方のもっと根源的で、もっと文化的に広い意味での理由を示せないかな?
ミラノのある工場の前では、女性労働者にインタビューする。
パゾリーニ:(いきなり)夜の通りで働く女性たちは、決して真面目とは言えないけど、あなたよりずっと多く稼ぐ。なぜ、あなたは真面目な生き方(仕事)を選んだのか?
女性労働者:親に従ってきたからよ。
別の女性労働者:真面目な仕事のほうが好きだからよ。
そして、そのことに関してパゾリーニはミラノのフェミニスト風な女性知識人にインタビューする。
パゾリーニ:悪知恵と妥協のテクニックは今でもイタリア人の唯一無二の哲学です。それではなぜ、真面目な女性はもっと稼ぐために、不真面目なことをしないのか?
カミッラ・セデルナ:家庭にはタブーがいっぱいあるし、例えば教育とか……
オリアナ・ファラーチ:工場で働く女性たちは職場の男性と恋愛して、恋愛の自由、性の自由を楽しんでいる。数年前はまだ……
パゾリーニ:それはミラノではね。でも、例えばカラブリア(南部)の下層プロレタリアートは?
ファラーチ:別の惑星ね。
すると映像は変わり、その別の惑星、南部のシチリアの農村地帯が映し出される。何もさえぎるもののない開けた畑に農民風の二人の男と草を食む馬が遠景で捉えられる。一人は本物のシチリアの農民で、もう一人はパゾリーニである。〈悪知恵〉と〈妥協〉がイタリア人の哲学だと言ってみたり、ミラノにとって南部は〈別の惑星〉だという発言があれば、すぐさま画面を切り替え、なるほどこれは〈別の惑星〉だと納得してしまうような映像が映し出されるなど、この作品には思わず噴き出してしまうようなシーンがいくつかある。これはパゾリーニのユーモアの意識的な表出にちがいない。
そして〈性〉から見たイタリアの南北問題について言及される。
「北部は現代的だが、その性意識は混乱し、古いイデオロギーの残骸で、現実全体を理解し判断することができないでいる。南部は古く、手つかずのままである。不貞は罪、寝とられ男は罪、名誉のための殺人は誇り、それが貧しい人々の掟であり現実である」(ナレーション)
ファラーチ:我々が生きている社会は確実に母系制に向かっている、とりわけ大国では。アメリカ、ロシア、中国で女性は重要な地位と財力、支配力を手にしている。どんな仕事にも就けるし、性的にも男性と同じ権利が……
アデーレ・カンブリア:南部にも差別があって農民以外の労働者階級はとても自由、プチブルはいまだに偽善者、農民は少し状況が異なる。彼らには資産などないので、女性の名誉(貞操)が財産となる。それを失えばすべて終わりだ。
オリアーナ・ファラーチの考えはあまりにも楽観的で現実を捉えそこなっているようにみえるが、アデーレ・カンブリアがそれを補うように、南部の現実について語っている。ちなみにファラーチはその後、国際的なジャーナリストとして活躍し、パゾリーニ殺害後、警察の捜査に不審を抱き、その真相究明に立ち上がった知識人の一人である。アデーレ・カンブリアは『アッカトーネ』『テオレマ』などに出演している女優である。
パゾリーニ VS ウンガレッティ
『グラムシの遺骸』の詩人パゾリーニは、イタリア詩壇の長老、ジュゼッペ・ウンガレッティにもインタビューする。「イタリア人はふつうの質問には、ノーコメントと無邪気に答えるが、明確で率直な気分を害するような質問、例えば同性愛についてはどう答えるか」という趣旨の下でのインタビューである。
パゾリーニ:性的なものに正常と異常、というものは存在するのか?
ウンガレッティ:それぞれの人間はそれぞれちがったふうにできている。つまり、身体構造においても、精神の在り方においても、それぞれがちがっている。したがって、全ての人間はそれぞれの在りようで異常である。全ての人間はある意味で自然と対立している。文明の行為は自然に対する人間の横暴であり、自然に反する行為なのだ。
パゾリーニ:とてもぶしつけな質問ですが、規範に違犯するような、内密で個人的な経験はお有りですか?
ウンガレッティ:個人的には私は人間であり詩人である。だから、詩をつくることであらゆる規則(法)に違犯している。……もう歳なので今では老いの規則しか尊重しない。残念ながら、それは死という規則だが。
ウンガレッティの独特な話しぶりとその悠揚迫らぬ受けこたえは、パゾリーニの質問の率直さを煙にまいているようで興味深い。当時、七十歳を越えている老詩人に若い詩人が性愛のタブーについてインタビューするという映像も貴重なものだ。
順応主義へのいらだち
「全国を旅するセールスマン」パゾリーニは移動する列車のなかでも、インタビューを敢行する。そのなかには、パゾリーニが最も嫌悪するようなプチブルの保守的な男性もいる。
パゾリーニ:あなたが非常識だと憤慨するものはなんですか?
乗客:正常さからはずれた全てのもの。
パゾリーニ:憤慨するとき、あなたのなかで何が起きているのか?
乗客:嫌悪を感じている。
パゾリーニ:その嫌悪はどのように表明されるのですか?
乗客:その不道徳な人物からすぐさま遠ざかり、そういう人物を軽蔑する。
パゾリーニ:性生活についての特別な知識を得たいとは思いませんか?
乗客:いや、わたしは父親だから、経験からそういったものは軽蔑し、遠ざけている。
パゾリーニ:お子さんの一人が何らかの性的異常だったら?
乗客:絶対ありえない。
これもまた奇妙なインタビューである。つまり、この男性乗客はまさにその「不道徳な嫌悪」すべき人物からインタビューをうけ、それに答えているのだから。男性乗客のどこか居心地のわるそうな様子はそのためだろうか。
そんな「非常識」なものに対する〈憤慨〉に満ちた世界から無事帰還したパゾリーニは、この〈憤慨〉に関してモラヴィアと対話する。
モラヴィア:〈憤慨〉は本質的には自らの人格を失うことへの怖れであり、それは原初的なものだ。
パゾリーニ:〈憤慨〉する者は心理学的には自信のない者であり、つまりは順応主義者です。
モラヴィア:全くその通りだ。〈憤慨〉する人間は根底的に自信のない人間だ。
パゾリーニ:順応主義は自信のない人間の強固な信念だ。
パゾリーニは調査の半ばで、ある困難に直面する。それは質問に答えたイタリア人が本心では答えていないのではないかということと、性についての一般的な概念をもっていないということである。そこでパゾリーニは調査の質問のかたちをもっと実際的なものに変えることにする。そうして後半では、パゾリーニの質問はより具体的なものとなる。〈結婚は性の問題を解決するか〉〈女性は結婚まで処女でいるべきか〉〈離婚は必要か〉(当時、イタリアではまだ「離婚法」は成立していない)〈売春について〉などである。今度もまた、海辺やナポリの街角で果敢なインタビューが展開される。そのなかで印象的なのは、シチリアでの明らかな男尊女卑的な性的抑圧に関するインタビューと、離婚について小さな女の子たちへのインタビューである。
パゾリーニ:ねえ、きみの両親が互いに愛し合わなくなったとしたら、きみは離婚とそのままと、どっちがいい?
女の子:離婚。
そして、パゾリーニはその女の子たちに語りかける。
「この調査でほんとうに驚いたのは、きみたちのような女の子たちだ。一般的な順応主義のなかで、きみたち女の子たちだけが明快で勇気のある考えをもっている」
パゾリーニはイタリア全土をめぐり、様々な階級、職業にわたる人々に、その当時はほとんどタブーとされる〈性愛〉についてインタビューし、人々に語らせた。パゾリーニが〈悪知恵と妥協が唯一の哲学〉と揶揄するイタリア人が素直に本心をさらけださないにしても、シチリアの農民、ナポリの娼婦からボローニャの学生、ミラノの女性労働者にいたるまで様々な人々に自由に語らせ、パレルモやナポリの街角に〈愛の集会〉を現出させたのは、当時でも現在でも画期的なことで、これは映画史に残るようなパゾリーニの独創的な映像作品と言えるのではないだろうか。
パゾリーニは調査のインタビューのなかで、たびたびイタリア人の〈順応主義〉の強固さにぶつかり、そのことを強調し、いらだちを隠さない。そのなかで、インタビューで出会った少女たちの純粋で明快な思考や街角での〈愛の集会〉をつつむ柔らかな大衆のざわめきは、パゾリーニの暗い思考に差し込む明るい光であるかのようだ。