パゾリーニ探索7

パゾリーニ「政治集会」全訳

                                                                           兼子利光

 

 

 

政治集会 p・p・パゾリーニ(兼子利光訳)

 

空の暗さと街の軒先との出会いは

静まり返った恐怖のなかで

ここではいっそう純粋である

 

すでに深まった夕闇が

純粋な生命(いのち)の詩的な最後の

ざわめきに震えていようとも

 

色あせた壁、何もない花壇、やせ細ったコーニス、

それらは宇宙からしみこむ神秘のなかへと

自らを親しげに楽しそうに溶かしこんでいる。

 

しかし、今宵は突然のどしゃぶりが通行人の

人知れぬもの想いに降りかかり、

神聖性を失った、温もりがあり親しまれる

 

壁に向かっての歩みを凍りつかせる……

 

通廊のように、もはや歩みの音も響かず

なぜなら通る者もまれだから、もはや声も通らず

なぜなら静まり返っているから。

 

虔ましい石の輝きのなか、灯りの消えた角で

広場はもはやおののくこともない。

一台ではなく何台もの有力者の車が

 

口笛で街を酔わせる若い浮浪者の

わきをかすめながら静かに走り去る……

蒼ざめた群衆が現実とは思えない

 

騒音であたりを満たす。演壇が群衆の

上方にあり、旗でおおわれている。

暗褐色の灯りは、その白い部分を

 

死者の顔をおおう布にし、その緑を

見えなくさせ、赤を古い血で染められたかのように

黒くしている。穂あるいは暗色の植物が

 

ファシストの炎のまん中で青白く光る。

 

      *

 

不意に苦痛がわたしを後ろへと押し戻す、

まるで見たくないかのように。しかし、

かくも鮮やかな世界のまわりを色あせさせる

 

涙を浮かべて、夕暮れの広場へとわたしは

この亡霊たちの大騒ぎのただなかに

身体を失ったかのように進んでいく。

 

それから、わたしはじっと見つめ、耳を凝らす、

周りのローマは静寂のなかにある、

その沈黙は街のものであり、空のものである。

 

これらの叫びに言葉が響くことはない。

暖かい種子は五月には夜の冷えにもかかわらず

発芽する。重く、昔からの凍りつくような寒さは

 

不安にみちた子どもが感じるような

悲しげな姿にされた貴重な壁にのしかかる……

そして、ここで叫び声(心のなかでは憎悪)が

 

増すにつれ、周囲はいっそう荒んだ

人けのないところとなり、いつもの

もの憂いざわめきは

 

今宵は出口を失い、聞こえない……

 

まったく、生きた見本である人たちは生きていて

自分たちが新しいと我々を惑わしてきた。

我々の側にある人々は死んでいて、

 

永遠に我々から奪われたままである。

しかし、このかろやかな東洋風の広場には突然、

目の前で叫びたてる密になった群衆、

 

大衆のなかの暗い陽気さであり、その陽気さの

なかの悲しげな暗さである民族の象徴とともに

群衆は健康を称えて最高潮となる。

 

そのエネルギーは弱さであり、性的な侮辱

でしかない。興奮した精神のなかで過度に

合法的あるいは非合法的な活動以外に

 

情熱をむける他の道をもたないだけなのだ、

ここで、種を超えることのできない

ブルジョア的な不能、種を賞め称える

 

信仰の混乱、のみが叫びたてる。

そうしてその混乱といえば

光が自分のなかにこそあるということを

 

知らない人間のなかで絶望的に増大していく。

 

      *

 

ほとんど凍りつくような寒さの、

この群衆のなかでわたしは立ち尽くす。

トリニタ・デイ・モンティから、

 

星々と閉じた地平線を背景に

ピンチョの丘のなだらかな堅い木々から、

その寒さは街を消し去っていく。

 

それがゆがんだ思い、哀しみ、つらさを

純粋な驚きにしながら、わたしの胸のうちも

消し去ってくれたのなら。

 

自分のものとは思われない視線を

わたしは周囲に投げかける。

わたしはまったく異質な存在だ。

 

これはわたしと生きている人々の顔つきではない。

その顔には予期せず、おぞましくも戻ってくる

ある死んだ時間がある。

 

ほとんど勝利のすばらしい日々

大衆の生き生きとした日々

もし、いまがその日々であったのなら。

 

でも、その日々は死んだのだ。

先に進んだ者にとっては、周りには

過去、亡霊、復活した本能があるばかりだ。

 

これらの早熟な老いを見せる若者たちの顔

これらの正直な人々のゆがんだ視線

これらの勇気というものの臆病な表現

 

それでは、記憶が色あせて

薄っぺらなものだったから、

その日々を思い出せなかったのか?

 

騒音のなかをわたしは無言で歩く。

あるいは、わたしが心のなかにもつ嵐のなかで

おそらく彼らは無言である。

 

      *

 

自分自身の身体を失うという感覚のなかで

思いがけない不安をおぼえる。寂けさのなか

ひとりの同伴者が彼のそばにわたしを見いだす。

 

わたしとともに、集中するも定まらずに

群衆のなかを進んでいく。

わたしとともに、これらの人々の顔を見つめ、

 

わたしとともに、リボンの記章が安っぽい

自尊心をみたす胸の間を、

彼は惨めな身体を引きずっていく。

 

そうして彼はわたしに視線をすえる。

その視線はわたしがよく知っている、

恥じらいで悲しげに燃え上がる。

 

あの友愛にみちた視線はわたしのものでもある!

その視線がこれらのしぐさに永遠の意味を与えるという

思考のなかではかくも深く親密なものとなる。

 

そして、この悲しげな了解のまなざしのなかで

その冬初めて、彼の運命が理解された。

しかし、決して信じることはできなかった。

 

わたしの弟はわたしにほほえみかけ、

わたしのそばにいる。彼はほほえみのなかに

痛ましくも、燃え上がる光をもち、

 

まだ二十歳にもならずに、その光で

パルチザンの暗部を目撃したのだった。

真の尊厳、憎しみとは無縁の激情をもって、

 

我々の新しい歴史を決定すべき人間として。

あの哀れな目のなかの影、

屈辱的で、厳かな……

 

彼は控えめな、見すえるようなまなざしで

哀れみを乞うている。

彼の運命のためではなく、我々のために……

 

彼こそはあまりに誠実で、あまりに純粋な人間である。

彼は頭(こうべ)を垂れて行かなければならないのか?

暗い明け方、この生まれ変わった世界のために

 

わずかな光を乞わねばならないのか?

 

 

 

〈註記〉

「政治集会」(一九五四)は映画以前のパゾリーニの詩作品で、『グラムシの遺骸』(一九五七)に収録されている。この『グラムシの遺骸』でパゾリーニは「市民の社会参加という新しい詩」つまり、政治社会的な拡がりをもつ市民大衆的な立場からの、今までにない詩の表現を実現することで、「大詩人としての位置を確かなものとしている」(一九七六年、ガルザンティ版『グラムシの遺骸』解説)。

この「政治集会」にはすでに、四方田犬彦(『パゾリーニ詩集』みすず書房、二〇一一)の先駆的な訳があるが、多くの疑義がみられるので、改めてわたしなりの訳を提示してみたい。イタリア文学の専門家でもないわたしがパゾリーニの詩を訳すのには、いささか面映ゆいところもないではないが、今まで映画にしろ文学にしろ、一面的にしか紹介されてこなかったパゾリーニの仕事について、わたしなりに辿ってみたいという意欲の、これは表われである。そういうわけで、わたし自身の訳にも疑義が生じると思われるので、気づかれた方は指摘していただきたい。

 

 

 

『グラムシの遺骸』