〈自伝〉としての物語

  『アポロンの地獄』(原題『オイディプス王』一九六七年)

 

 

パゾリーニが「観念喜劇」と称してつくった『大きな鳥と小さな鳥』はイデオロギー的、観念的にすぎ、イタリアの喜劇王トトを主演に据えたにもかかわらず、「喜劇」と呼ぶには笑えない映画となってしまったが、それでもネオレアリズモに対する評価と批判という観点から、エピソード〈奇妙な中国人の住む田舎家〉に見られるような、簡潔で単純な構成ながらも歴史的、社会的な想像力を喚起する映像は新たなリアリズムを予感させた。

そしてパゾリーニは『奇跡の丘』と同じように神話的な世界に想を得た『アポロンの地獄』を撮る。これは原題が示すように、ギリシャ悲劇の傑作、ソフォクレスの『オイディプス王』を基にしたもので、実際パゾリーニはギリシャ語原典を翻訳し、それに基づいて脚本化している。しかし、劇の構成などはかなり異なっていて、映画化するにあたって自由に構成しなおし、歴史的な細部にもあまりこだわらずに創りあげた、このパゾリーニ初のカラー長編映画は、それ自体がパゾリーニによる『オイディプス王』というべき作品となっている。

周知のように、古代のオイディプス伝説から人類に普遍的な心的現象としての「オイディプス・コンプレックス」を抽出したのはフロイトであるが、そうした近代的な精神分析学のいう「近親相姦」のテーマを、パゾリーニはこの『アポロンの地獄』と『テオレマ』(一九六八)で取り上げることになる。

 

プロローグの赤ん坊は私だ

パゾリーニの『アポロンの地獄』は三つのパートに分けられる。現代が舞台のプロローグとエピローグ、その間に挟まれた神話的世界の三部立てである。プロローグ〈現代のテーベ〉では現代の〈オイディプス〉の誕生が描かれる。パゾリーニがこの作品を「自伝的で、私のオイディプス・コンプレックスの物語を語っている。プロローグの赤ん坊は私だ」(『幻影の規則』、以下同)と書いているように、舞台は一九二〇年代の北イタリアである。小市民的な家の窓越しに、まさに子どもが生まれ出る出産の様子がかすかに見て取れる。それから、高い樹々が周囲にそびえる広々とした草原が映し出される。近くには川が流れ、心地よい風が樹々をゆらしている。昼下がりの太陽のなか、広い草原にはほかに人の気配もなく、静まり返ったその動かぬ永遠の時間のなかで、母親が赤ん坊に授乳をしている。母親役には『月から見た地球』でおバカな娘役を好演してみせたシルヴァーナ・マンガーノ。この作品ではうって変わって、神話的な世界にふさわしい、捉えがたい神秘的な美しさを見せている。この場面でも、赤ん坊から見える母親の姿ということだろうか、赤ん坊を抱きかかえ、優しげであるが、どこか不安げな表情は忘れがたい印象を残す。そして、赤ん坊の眼には太陽の光とともに樹々の緑と空の青みが差し込んでいる。母親に抱かれて、遅い午後の太陽の光のなかで、赤ん坊は至上の平安を感じているようだ。

続いて、父親が現れる。パゾリーニの父親が歩兵将校であったように、ここでも軍服姿で現れ、自分の子どもを敵対的な視線で見据えて、内なる声として語る。〈息子よ、いずれお前は私の場所を奪い取るだろう。そう、私を世界から追い出し、私の地位を奪い取る。お前は私を殺すだろう。そのために、お前はここにいるのだ。お前はそれを知っている。お前が私から奪う最初のものは私の妻だ。私の最愛の妻だ。しかし、妻へのお前の愛があることで、妻は心変わりし、私を裏切る。お前は母親への愛のために、お前の父親である私を殺すのだ。私はどうすることもできない〉 まるでアポロンの神託のように、これらの忌わしい言葉が父親から息子へと、内なる言葉として語られる。それは神のお告げといった、神話的世界の共同幻想としてではなく、親子の関係という対幻想の意識として語られる。いささか攻撃的で、感情的な激しさが感じられるのは、パゾリーニの自伝的な意識が反映されているからだろうか。あるいは、オイディプス・コンプレックスの在りようを強調しようとしたのだろうか。パゾリーニ自身はこう言及している。「息子に対する父親の憤激は、私が母親と息子の関係よりもいっそうはっきりと感じた何ものかである。それは歴史的な関係ではなく、純粋に内面的で個人的な、歴史とは無関係なものである」