生命(いのち)と自分自身の感情の犠牲となって生きる
そうして、その現代の場面から一転して、古代の神話の世界へと入っていく。赤ん坊のオイディプスは棒にくくりつけられて、砂漠のなかを男に担がれていく。赤ん坊は山のなかに捨てられるが、それを見ていたある男に拾われ、コリントスの王のもとに預けられる。王のもとで、実子のように育てられ成長したオイディプス。それをフランコ・チッティが演じ、その育ての母役にアリダ・ヴァッリが扮している。
ソフォクレスの原作では、物語はすでにテーベの王となったオイディプスのところに、嘆願にやってきたテーベの民との対話の場面から始まる。代表者の神官はいう。「いまやテバイの都は災厄の嵐に揉まれに揉まれて、もはや死の大浪の真底から、頭をもたげる力もなきありさま。」(岩波文庫、藤沢令夫訳)その災厄から都を救えるのはオイディプス王のほかにはない、そう思い人々は王の祭壇へと集まってきたのである。都に災厄を及ぼす原因を探ることじたいがオイディプス王の謎に迫るという構図のなかで、しだいにオイディプス王の呪われた運命の底深い闇に迷い込んでいくような、〈対話〉によって展開するその物語はまるで上質な推理小説を読むように面白い。
しかし、パゾリーニの映画作品では、物語はその発端から語られていて、観る者は捨てられた赤ん坊とともに、その呪われた運命をたどることになる。オイディプスは両親を自分では本当の父母だと思っていたのだが、成長するにつれ、周囲の遊び仲間から「お前は王の本当の子どもではない」とからかわれ、傷つく。オイディプスはある夜、意味不明の不吉な夢をみて不安を覚え、両親のいるコリントスを離れ、旅立つことを決意する。そして旅の途中でアポロンの神殿で神託を受ける。下された神託は「お前はお前の父親を殺し、お前の母親と交わる」というものだった。それはまさしく、旅立ちの前にみた夢の内容とも符合するもので、それだからオイディプスは父母のもとを離れたのだった。だから、オイディプスはその神託を信じることはできなかった。それでもオイディプスは、神託の下す運命から逃れようと、テーベへと向かう。
そして、とても狭い道にさしかかったところで、テーベの王ライオスの一行と鉢合わせする。ライオス「そこの乞食、道を開けろ」。オイディプスは答えず、道の真ん中に両足を開いて立ちふさがる。ライオスは叫びたてる。「そこの乞食だ、どけ!」。オイディプスは襲いかかってきた王の従者たちを格闘のすえ、殺害する。その時、太陽の光がオイディプスの身体を刺し貫く。そして、馬車の上の実父であるライオス王をそれと知らずに叩きのめし、殺害する。このシーンでもまた、太陽の光がオイディプスの身体を貫き通す。この太陽の光を巧みに映像に生かした優れた映画的表現で、太陽の光は神の言葉として表出された、逃れようもない人間の運命のメタファーででもあるかのように、オイディプスの身体を刺し貫く。
その後、「あのむごたらしい歌い女(スフィンクス)に捧げていた貢物から、わたくしどもを解放」(神官の言葉、岩波文庫)することで、オイディプスはテーベの王に迎えられる。神話では、スフィンクスは丘の上に座を占めて解きがたい謎をうたい、テーベの民を苦しめていたが、そこへコリントスからオイディプスがやってきて、その知力でスフィンクスの謎を解き、テーベを救ったといわれる。つまり、知的で有能なるオイディプス像である。しかし、パゾリーニのこの作品では、この奇態な呪術師スフィンクスをオイディプスは、有無を言わさず力まかせに殺してしまうのである。このオイディプス像について、パゾリーニはこう書いている。
「ソフォクレスのなかで、私がいっそう好きになったことは、あまり経験豊かでもなく、人よりいっそう無垢な人物が、この典型的な困難に立ち向かわざるをえなくなるというプロットである。私はオイディプスを知的にしなかったという理由で批判された。しかし、私はその批判は誤りだと思う。知的な人間の仕事は探求することだ。何かがうまくいかないと感じるとすぐに、その中身を掘り下げはじめる。オイディプスの場合、ちょうど反対のことが起きている。ものごとの中身を見ようとしない彼は、すべての無垢なる者と同じように、生命(いのち)と自分自身の感情の犠牲となって生きるのである」
わたしが『オイディプス王』の邦訳を読んだ限りでは、オイディプスに知的なイメージを抱いていたので、パゾリーニ作品では、このオイディプスにフランコ・チッティが配されているのにいささか違和感を覚えたのは確かである。フランコ・チッティにはボルガータのヒモや犯罪者といった卑小なイメージが強烈にあるからだ。しかし、パゾリーニはソフォクレスを全く違った観点から読み込んでいて、そこから〈生命と自分自身の感情の犠牲〉となって破滅していくボルガータの若者のイメージと重なるフランコ・チッティを選んだのだと思われる。ちなみに、このフランコ・チッティは先頃、八十歳で亡くなったが、パゾリーニと初めて出会ったときの、パゾリーニの印象を「ネクタイをした知識階級の世界からやってきた人」と表現している。