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私は戻ってきた
生命(いのち)は始まる所で終わる
オイディプスを王として夫として迎えるイオカステ。そのイオカステに扮するシルヴァーナ・マンガーノの神話的な妖しさただよう美しさは不気味なほどで、このマンガーノとフランコ・チッティの取り合わせもまた実に奇妙なものである。逃れようにも逃れられない奇怪な運命の糸を手繰り寄せる者があるとすれば、それはとりもなおさず、この母であり妻でもあるイオカステであるかのように思われ、オイディプスはその運命が張りめぐらす罠に囚われた、無垢なる子であり、愛人でしかないようにも思われてくる。
「わが父を殺し、わが母を妻とする」という呪われた悲劇が展開されるのは、モロッコの赤い砂漠や古代都市である。オイディプスが苛酷な太陽の光のなかを彷徨する砂漠、あるいは簡素さのなかに統一された美しさのある古代都市の建築物はその悲劇をいつそう劇的なものとしている。
ところで、ニーチェは『悲劇の誕生』でオイディプスについて、次のように言っている。
「ギリシアの舞台に登場するもっとも苦悩に満ちた人物オイディプスは、ソフォクレスによって高貴な人間として理解されていた。彼はその智慧にもかかわらず過誤と悲惨な状態に陥る定めを負わされているのだが、最後には彼の途方もない苦悩によって魔法的な祝福の力を周囲に及ぼし、この力は彼の死を超えて作用するのである。深遠な思想を持つあの詩人は、高貴な人間は罪を犯すのではないと言おうとする。この人間の行動によってあらゆる掟、あらゆる自然の秩序、そればかりか倫理的世界すらも破滅するにもせよ、ほかならぬこの行動によって、あるいっそう高い魔力の作用圏が形成され、ある新しい世界が、転覆された古い世界の廃墟の上に設立されるのである。」(浅井真男訳)
ニーチェのオイディプスについての考察は、パゾリーニのそれとは異なったものだが、古代ギリシャ、ギリシャ悲劇に精通した哲学者の、その特徴的な弁証法的な思考がみごとな指摘を引き出している。とは言え、ニーチェが続いて、「自然を強制してその秘密を明かさせるためには、自然にさからって勝つこと、つまり反自然のこと以外に方法があるだろうか?……自然―あの二重の本性を持つスフィンクス―の謎を解く者は、また父親の殺害者、母親の夫として、もっとも神聖な自然秩序を打破せざるをえないのである。」と書くとき、パゾリーニはニーチェに近づくのである。ただそれは、ニーチェのいう〈知識〉によるものではなく、〈無垢なる生命〉によるものだという違いはある。
映画はソフォクレスの原作の冒頭にあたる部分のシーンとなる。疫病がテーベの街を襲い、腐乱した死体が街のいたるところに見られ、その遺体を火葬する場面もある。そして、住人たちが祭殿へと集まり、オイディプス王に災厄の除去を嘆願する。ここで、パゾリーニ自らが神官役として登場し、嘆願を読み上げる。オイディプス王は災厄をもたらす悪因を明らかにすることを約束する。そして、神のお告げは「先王ライオスを殺害した者を罰せよ」だった。そうして、しだいにオイディプスは真実に迫っていく。つまりは自分自身を知るということになるのだが、それはまた自身の破滅をも意味していた。パゾリーニ作品では、そのことはより多く、母であり妻であるイオカステとの対話によって明らかになっていく。
盲目の預言者やかつての従者の証言、イオカステの話からオイディプスはようやく、自分自身を知ることになる。神のお告げどおりの運命を生きてしまったオイディプスは、イオカステを抱きながら、思わず「お母さん」と叫ぶ。もちろん、これはソフォクレスの原典にはないもので、パゾリーニはそう叫ばせることで、近親相姦のイメージを前面に出し、神話の世界から離れ、現代に生きる人間の問題へと、精神分析学的な対幻想の領域へと作品を導いていく。
イオカステもまたすべてを知り、絶望し、首を吊って自死する。それを目撃したオイディプスは、イオカステの身につけていた黄金の留め金で自分の両目を深く突き刺し、そして叫ぶ。
〈もう私を苦しめた太陽を見ずにすむ。暗闇のなかで、もはや見る必要のなかったものを見ることもない。もはや知りたかったことを知ることもない……不幸な私の身体をもっとよく自分のなかに閉じ込めるために、耳も引き裂いてしまえばよかったのだ……〉
神話的な世界はこの自己破壊的で苛烈な結末で幕を閉じ、場面は現代のボローニャに移る。エピローグである。
盲目の男と介助するニネット・ダヴォリが、ボローニャの独特なアーチをもつ、重厚な回廊を歩いてくる。大聖堂の階段で笛を吹く盲目の男。大聖堂の前の広場は車や人々で混雑している。それから、郊外の工場地帯へ。工場の労働者たちの姿が見られる。そしてプロローグで赤ん坊が生まれた家、母親とすごした高い樹々のある広い草原にやってくる。
パゾリーニによれば、このエピローグはすべての過去の「昇華」を意味し、盲目の男は笛を吹くが、それは彼が詩人であることの比喩で、街なかのイメージは「デカダンス派の詩人」、工場のそれは「マルクス主義の詩人」そして最後に、「何ものでもない、ただ死のうとしている男」ということになる。これもまた、パゾリーニの自伝的要素が濃厚に感じ取れるものではあるが、ただ映画作品として、監督が思い描いたとおりに観客がその作品を観ることは不可能であり、生産的でもない。なぜなら、観ることは創造することでもあるのだから。ここは、ある衝撃的なできごとの後、失意の盲目の男が、人々で賑わう街の雑踏を歩き、あるいは労働者のいる郊外の工場地帯を歩き、とうとう思い出の場所に戻ってきたシーンだ、というふうに考えれば十分である。
その思い出の場所にたどり着いた盲目の男には、赤ん坊のときに見たのと同じように、樹々の緑や空の青さ、太陽の光までが見えるかのようだ。そこで男は初めて、母を見分け、母を認識したのである。
わたしはプロローグに接続する、このラストシーンがとても好きである。神話の世界ではない(間に挟まれた神話の世界はまるで夢のようだ)、現代の世界で父親と母親にまつわる、ある忌わしいできごとの後、盲目となった男が、赤ん坊のとき母親とすごしたその場所で、初めて母親を識ったのだ。その場所に戻ってきて、男はその場所の風の匂いや風にゆれる樹々のざわめき、草原の甘やかな草いきれであのときのすべてが、あのときのもう戻ってはこない母親とすごした濃密な時間の流れが蘇ってくるのを感じるのだ。そして、男の謎めいた言葉ですべては終わる。
〈おお、光よ。私はもはやお前を見ることはない。
かつてはどうにかして私のものだった光よ。
いまや、私を照らすのもこれが最後だ。
私は戻ってきた。
生命(いのち)は始まる所で終わる。〉