パゾリーニ探索9

ブルジョア的イデオロギーとしての市民社会を描いた〈定理〉

  ――パゾリーニ『テオレマ』を読む

                                     兼子利光

 

小説『テオレマ』と映画『テオレマ』

パゾリーニは『アポロンの地獄』の後、〈近親相姦〉のテーマをさらに拡張させ、近代市民社会の規範とそれからの逸脱、当時社会的な拡がりをみせていた資本家(ブルジョアジー)と労働者階級の対立、あるいは神(宗教)と人間の孤独などをテーマに『テオレマ(定理)』(一九六八)を撮る。これは同名の小説を夏のカンヌで執筆していた間に仕上げた脚本をもとにした作品である。小説と映画はそれぞれちがった作品ではあるが、それぞれ密接に関わりあってもいて、したがってここでは、小説『テオレマ』を導き手として映像作品『テオレマ』を見ていきたいと思う。

『テオレマ』という寓話的な作品はおおよそ前半と後半に二分することができる。ミラノで工場を経営するブルジョア一家にある日突然、見知らぬ客人が現れることで一家に引き起こされる身体と精神の混乱と衝撃が前半で語られ、後半では、その客人が去ったあと、家族一人ひとりを襲う精神的な飢渇感や破滅・崩壊の姿が描かれる。ところで、映画『テオレマ』は『大きな鳥と小さな鳥』と同様に観念的でわかりにくいところがあり、小説『テオレマ』の言葉がそれを補うように、理解をたすけてくれる。

映像には、監督の意図したもの以上に観る者に強く深い印象を残し、新たな想念へと導くものもあれば、監督の提示したものが単なる〈モノ〉じたいの描写としてしか受け取れず、観る者の想像力ははたとそこで止まってしまい、ただ通り過ぎてしまうものもある。例えば、シルヴァーナ・マンガーノ扮する一家の母親が客の青年の脱ぎ捨てた衣服に、過度に執着した視線を注ぐシーンがある。これは後半の、街で拾った若い男とのシーンでも繰り返される。床の上に脱ぎ捨てられた男の衣服がまず映し出され、それからそれを見つめるマンガーノの顔の表情が捉えられる。これがある種のフェティシズムであることはわかるのだが、それにしても長い〈執着〉であり、反復される行為なのである。これらのシーンは、小説では次のように描写される。

「それらの衣服は、ついに永遠に去ってしまった人の遺品ででもあるかのようだ。」(第一部十二章)

「床には、脱ぎ捨てられたばかりの若者の衣服がある。まるで、今通り過ぎたばかりの、そしてすぐさま遠くへと消え去ってしまった何者かの痕跡ででもあるかのように。」(第二部十二章)

(小説からの引用は兼子訳、以下同。米川良夫訳『テオレマ〈定理〉』(一九七〇)参照)

「遺品」といい、「痕跡」といい、映像からこの何者かが立ち去ったという〈空虚感〉や〈喪失感〉を感じとることは難しい。あるいはこれはパゾリーニの感覚の個性的な表現であるのかもしれないが、せいぜいのところフェティシズムの表現としか、わたしには感じとれないシーンである。

 

 

 

ブルジョア家庭に突如現れた見知らぬ客人

映画は、経営者が工場を労働者に贈与して話題となる、その工場で記者が労働者にインタヴューするシーンから始まる。そして、昔の記憶のような、あるいはそれが何かの前史であるかのような、無声のセピア色の映像に変わり、登場人物である家族四人とメイドの簡単な肖像が描かれる。続いて、映像はカラーに戻り、まるでヴィスコンティの映画のように、広い邸のなかの豪華な居間が映し出される。息子の友達などが集まって賑やかなその居間に、家族は見知らぬ若い美貌の男を見いだす。その男は突然現れ、この邸に滞在することになる。この正体不明の客人にテレンス・スタンプが扮している。ウィリアム・ワイラーの『コレクター』(一九六三)で主人公の偏執的な異常性を冷酷に演じ、フェリーニの映画にも出演するなど六〇年代の伝説的な俳優となるが、その後目立った活動もなく、映画の世界から消え去ってしまったかに思われたが、九〇年代に入り再び映画作品に出演し、脚光を浴びるなど、謎めいた経歴をもつこのイギリス人はまさにこの正体不明の男にふさわしい俳優といえる。

この謎の客人がなにものなのかは、パゾリーニ自身も言及している「神」とか「超越的な存在」を想定すべきであろうが、むしろこれは、純粋で透明なエロス的存在(意識)さらに言えば、パゾリーニの自己意識の対象化された存在(意識)ではないか、とわたしは考える。この『テオレマ』はパゾリーニにとって、ブルジョアの家庭を舞台とする初めての映画である。そうしたブルジョア家庭を描くには、その家庭に入り込み、内部から家族の一人ひとりと交流する人物が必要となる。そこでパゾリーニが生み出したのが、テレンス・スタンプの客人であり、それは純粋で透明なエロス的存在であるがゆえに家族の一人ひとりの身体だけでなく、その精神をもとらえることになる。小説『テオレマ』の冒頭で「プチブルとはイデオロギー的な意味においてであって、経済的な意味においてではない」というように、市民社会の規範や偽善性、俗悪さなどがブルジョア的なイデオロギーとして対象化される。

こうして美貌の客人は家族の一人ひとりと身体的にも精神的にも接触していくことになる。まず一家の家事を仕切るエミリア。パゾリーニの死後、事件の真相究明に尽力した友人の一人であるラウラ・ベッティが演じている。エミリアはミラノ郊外の貧しい農家の出で、このブルジョア家庭で家政婦として働いている。つまりブルジョアではない。エミリアは若者が来て以来、若者に気をとられて、仕事も手につかないように見える。若者の存在からはエロスの香気でも発散されているかのようだ。「少しずつ、その客の身体を凝視していることが堪えがたくなってくる。そして、エミリアは自分のその誘惑に抗い、狂おしく反抗する。」(第一部七章)そんなふうに、エミリアはその若者のエロスの磁場にとらわれていく。そして自らの内部にある欲望を呼びおこされ葛藤するのだが、極限に達したのか、突然台所に駆け込み、ガス管を口にくわえ自殺を図る。異変に気づいた若者が駆けつけ、エミリアは救われる。そして、エミリアの欲望は叶えられるのだが、映像ではこのエミリアの葛藤を読み取るのはむずかしく、自殺未遂のシーンなどは唐突でよく理解できない。

 

 

 

小説『テオレマ』

(イタリア語ペーパーバック)

『テオレマ』公開当時のポスター